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グソーでなにしてるのばあちゃん

4月1日は父方祖母の誕生日でした。生きていたら107歳になっていたはずの彼女は、4年前、103歳の誕生日を迎えた直後にグソー(沖縄の言葉で後生。あの世のこと)へと旅立ちました。 100歳祝いのときには全国から子や孫が集まって島のホテルで盛大にお祝いをし、「こんなに元気だから次は108歳の茶寿祝いだね〜」と話していたのに……。 

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亡くなる2週間ほど前、103歳の誕生日。ケーキもしっかり食べたね〜。


大正3年、沖縄本島に生まれ、3つの時代を生き抜いてきた祖母。20代を東京で看護婦として過ごし、いろいろあった後に石垣島にやって来たのだそうです。夫を亡くし、女手ひとつで子供たちを育てた苦労はかなりのものだったと思いますが、当時の女性としてはとても拓けた考えと行動力、そしてユーモアのある人でした。100歳祝いのとき、叔母(父の妹)が「貧しくても、心は豊かに育ててもらった」と涙ながらにスピーチしていたのが忘れられません。

同居していた私の両親も近所に住む先の叔母夫婦も共働きだったため、我々姉弟や従姉妹の面倒を見続けてくれたのは祖母でした。おかげで全員見事なばあちゃん子。放課後はいつも祖母が作るおやつが楽しみで、油味噌を巻き込んだポーポー(沖縄風クレープ)や、角がまん丸の塩むすびを争うように食べていました。おいしかったなぁ。いまだに誰ひとりどちらの味も再現できないまま。情けない話です。 85歳頃からはさすがにもう台所に立てず、代わりに私たちが作るご飯を美味しそうに食べてくれたのが及ばずながらの孝行になったのかもと思っています。

 晩年以外は頭も口もはっきりしていて、テレビで昔の恋愛映画を観ては「老いらくの恋ってのがしたいねぇ」、私がおばんざい風の食事を作れば「揚げ物のない食卓は寂しいっ」と名言も連発し笑わせてくれたものです。

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最期まで驚くほど健啖だった。これは100歳の頃の食事。1日3食きっちり食べて、2度のおやつも楽しみにしていた。その辺は私が受け継いでいる気がしますよ。

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京都の友人が送ってくれた枝豆に大喜びするばあちゃん。
  

それにしてもこのばあちゃん、亡くなってから一度も夢にも出てきません。生前よくみんなに「ばあちゃんがグソーに行ったらあそこがどんなところか夢に出て教えてあげるからヨ、楽しみにしてなさいヨー」と言っていたのに。先に行ったきょうだいやじいさんと遊ぶのに忙しいのかな。それならいいけど。いや、でもやっぱりちょっと“近況”を知らせてほしいな。そして「みんなのことを見守っているよ。誰もコロナなんかかからんようにしてるよ」と言ってくれ。頼む。


ばあちゃんとの最後の会話は、103歳の誕生日を終えて私が今住んでいる京都に戻る前夜のこと。この頃はもうほとんど単語単語でしか喋らなくなっていたのに、珍しくあれやこれやと昔話をした後、ふっと私の腕をつかんで「私は優しいばあちゃんだったかねぇ〜」と聞いてきたんです。驚いて、「やめてーーー、そんな最後の言葉みたいなんやめてーー」とちゃかしてしまったのですが、ちゃんと答えてあげたらよかった。とってもとっても優しくて、厳しくて、明るくて、賢くて、きれい好きで、我慢強くて、そしてみんなに愛情をたっぷり与えてくれる、大好きなばあちゃんですよと。

もっともっとばあちゃんと時間を過ごしたかった。いろんな話を聞いておけばよかった。あれもこれも食べてもらいたかった。私こそ聞きたい。私はいい孫だったかねぇ〜と。いつか、あの世でまた会えたら答えを聞かせてもらおう。その日まで、ばあちゃんのように歳をとれるようになんとか生きていこうと思います。

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 帰るたびに「あんたは! また太って! あっはっは〜」と笑いながら迎えてくれた。またあの声が聞きたい。




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