見出し画像

『ようこそ実力至上主義の教室へ』から学ぶ哲学その2(アニメ1〜3話(+ラノベ))

アニメよう実では、毎話最初に偉人の言葉を引用したサブタイトルが表示されるのですが、今回は第1話〜3話のサブタイトルに触れていきます。

それでは早速。


第1話

悪とは何か──弱さから生じるすべてのものだ。
F・W・ニーチェ


みんな大好きニーチェ先生の言葉です。

この言葉を簡単に表すなら『弱さ=悪』です。

今の世の中でこんなこと言おうものなら、間違いなく叩かれますが、ニーチェはおそらく「何もしない、できない者が他人ができることを妬み、陥れ、足を引っ張っている」ということを言いたかったのだと思います。

つまり、才能ある者を妬まず、自分にない強さを持っていると認め、受け入れ、自分自身も何かできることをやろうということです。

よう実では、須藤に1番当てはまっている言葉だと思います。

小説では、序盤は足を引っ張りまくっている須藤ですが、後半になるにつれて、自分でできることをしっかりこなすようになっていきます(アニメでは須藤の成長が見られる前におわってしまいますが)。

別の作品にはなりますが、『ノーゲーム・ノーライフ』という作品ではニーチェの考え方が当てはまるようなことが結構多く存在していて、この考え方も作品中のキャラクターの白に当てはめてみるとかなりしっくりくるのではないでしょうか。

あまり別作品に触れすぎるのはタイトル的にあまり良ろしくないと思うので、この話題はここでやめさせていただきます。

アニメから学ぶ哲学(『ノーゲーム・ノーライフ』編)もやる予定ですので、この話題の続きが見たい方はぜひそちらも見てもらえると嬉しいです。


では、次のサブタイトルにうつります。


第2話

才能を隠すのにも卓越した才能がいる。
ラ・ロフシュコー


これはそのままの意味で解釈できます。

まず、才能を隠す必要があるのかという話ですが、前述の第1話のサブタイトルの話でもしたように、才能は多かれ少なかれ嫉妬を受けることがあります。

そういった場合に、才能をある程度隠して誰からも疎まれることなく生活する、といったふうに使うことができます。

よう実でも、綾小路は才能を隠し、成績劣等組の須藤たちと本人の目的とする「普通の生活」をすることに成功しています(個人的には少し失敗)。

綾小路の場合は中の下の成績をわざと取っていましたが、普通の人なら中の上から上の下、上の中くらいの成績を取るのが1番誰からも疎まれない成績だと思います。

閑話休題。

才能を隠すのが難しいということですが、そんなことないと思う方も多いでしょう。手を抜けば良いだけじゃないかと。

でも実際はかなり難しいように思います。

私は才能を隠すには2つの方法があると考えます。

1.最初から隠し通す。

2.他の才能で隠す。

1について、最初からでなくとも良いと考えた方もいらっしゃると思いますが、途中から普通になると誰かには気づかれます。

例えば、学校の成績の場合、滅茶苦茶良い成績から段々と下げたとしても、少なくとも先生には小言を言われますし、生徒にも最近普通だと気づかれることも普通にあります。

ということで、1の場合は最初から隠し通すことが重要となります。

次に2についてですが、簡単な例でいくと、良い成績を取り過ぎて嫉妬等を受けるのをコミュニケーション能力で防ぐといったことです。

成績≪コミュ力の状態にみせるのです。

これは、べつにコミュ力がなくとも別の印象で「こいつは良いやつ」と成績の良さを薄める要素を作れば同じようなことができますし、それが理想です。

要するに、成績が良いけど「〜」という別の印象を作りましょうということです(「〜」の部分には「良いやつ」とできたらベストで、そうなれば、ほとんど疎まれることはなくなるでしょう)。


それでは今回最後のサブタイトル。


第3話

人間は取引をする唯一の動物である。骨を交換する犬はいない。
アダム・スミス


この言葉は経済について書かれた本の一節なのですが、その中でアダム・スミスは分業による生産性の向上が豊かさにつながっていくと話しています。
このことに対し、その分業のもとになるのは、人間だけが持っている交換したいという欲求、すなわち、需要(と供給)がもとになっていると言っている言葉です。

ただ、この解釈だけだと、ただの経済学であまり哲学っぽくないので、解釈に出てきた「人間だけが持っている交換したいという欲求」とはどのようなものなのかについて話していきます。

いきなりですが、2人の人間が野菜とお肉を物々交換したと考えましょう。これは取引と言えると思います。

なら、ハチとイチゴについて考えてみましょう。ハチはイチゴから蜜をもらい、変わりに、イチゴはハチに受粉するという労働をしてもらっています。ことばだけみると、これもれっきとした取引に見えませんか。

にもかかわらず、光景を想像すると、感覚として、これは取引とは言わない、と感じてしまうのはなぜでしょう。

それはおそらく、取引が人間が意志を持ってすることと考えているからでしょう。

しかし、野菜とお肉の例だと、人間の意志というよりは、むしろ生きるために必要だから交換してるように感じませんか。

なら結局、人間だけがしている取引っていったい何なのか、ということになります。

確かに、人間はただの交換もしていると言えます。

ですが、人間は生活をより豊かにするために、本来不要な交換もするのです。

そこに、人間の取引の本質があると考えられます。

つまり、「人間だけが持っている交換したいという欲求」とは、「生活をより豊かにするために交換したいという欲求」であると考えられます。

さて、この話をしたあとで、アダム・スミスのかの言葉をもう一度見てみましょう。


人間は取引をする唯一の動物である。骨を交換する犬はいない。


この言葉が少し理解でき、意味のある言葉のように感じられるのではないでしょうか。


と、今回はここまでとさせていただきます。

これから、上手くまとめられるよう精進していきますので、応援していただけたら嬉しいです。

最後まで長々とお付き合いくださりありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?