木下雄介は今どこにいるのか

「あ。雨」

台風直撃の危機もあった横浜スタジアムで、野球の試合は滞りなく終了した。絶対に負けられない試合を、ひたすら泥臭い野球でもぎ取った侍たちは、JAPANのユニフォームから公式ウエアに着替え、表彰式に臨んだ。
「サンライズレッド」と名が付いたカラーのウエア姿は、見慣れない。考えてみれば当たり前だが、侍ジャパンにも公式ウエアが与えられていたことに驚いた。侍ジャパンは、野球日本代表のオリンピアンだった。

24人が上る表彰台は、長く長く、ハマスタのグラウンドを横断していた。一人ひとり名前が呼ばれ、隣の選手がメダルをかける。今大会に誕生した、今までにないメダル授与の光景だ。
拝受のトップバッター、山田哲人の名が球場に響く。やはり、2021年侍ジャパンを代表するのは山田哲人なのだ。そう誇らしく胸を張ったあと、その並び順が単に背番号順だったことに気づくのに、さほど時間はかからなかった。

台風は、東に逸れていたはずだった。日中時折ぱらついた雨も、試合開始の午後7時には上がっていた。そんな横浜の夜。

「あ。雨」。私が画面の中の雨に気づいたのは、大野雄大のメダル報告から少し経った、ビクトリーブーケ贈呈のときだった。

◇◆◇

木下雄介を初めて意識したのは、名古屋のラジオから流れてきたエピソードが書き綴られた、中日ファンのSNS投稿だった。

木下は、2019年7月22日に父を交通事故で亡くした。ファームの試合中に入った突然の訃報に、同僚たちからすぐ向かうように言われたが、どんな時も仕事を休まなかった父の姿を見てきた木下は、「大切なのは今の家族のために投げること」と、試合を終えてから大阪の実家に向かった。

木下には、過去に大切な人を亡くした経験があった。失う絶望感から、人付き合いなど必要ないと思っていた。ましてやチームメイトはライバル。群れる必要もない。

しかし翌日の通夜には、ドラゴンズのピッチャーやスタッフたちの姿があった。次の日も試合がある中で、名古屋から大阪まで、チームメイトの父に手を合わせるために、喪服を着て駆けつけてくれたのだ。母は失意の中、「雄介は本当にドラゴンズの皆さんに救われている」と笑顔になった。

死生観は、さまざまだ。大切な人を亡くした木下が、こんなに辛い思いをするのなら人付き合いなんていらないと心を閉ざす気持ちは察するに余りある。しかし、ドラゴンズの仲間はそんな木下に寄り添い、木下の大切な人に手を合わせた。そして、母の「救われている」という言葉に、木下の凍った心が溶けた。

いい話だと思った。人は、人に救われて、生きている。そういうことなのだろうと、そう思う。
そして、ライバルであり、友であること。それを認めるのは苦しいことかもしれない。それでも、寄り添う仲間のいるドラゴンズが、木下の居場所になった瞬間だった。

◇◆◇

大野雄大は、隣の栗原陵矢に金メダルをかけられたあと、そのメダルを空に掲げた。家族や球団の意志とは反し、残念ながら前日、木下の死は周知の事実となっていた。
だから、大野のその行動の意味を、野球ファンは理解してしまった。

大野は木下から「金メダル取ったら見せてくださいね」と言われていた。一番光り輝く色のメダルは、暗い夜空の奥からでも見つけやすかっただろう。
「大野さんよかったですね」という祝福の言葉は、大野にしか聞こえなかった。

大切な人の死に直面して、人と距離を置いた木下。そして、大切な人の死で、人と近づいた。だから、こんなに短く愛のある会話が、あの日のハマスタで交わされたのだ。

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木下は、亡くなった。急に倒れて1か月。本人も、自分が死ぬなんて思いもしなかっただろう。今でも自身の死を信じられないかもしれない。

迎え盆の今日、8月13日。四十九日も終わらない木下の新盆は、来年の今日のはずだった。しかし、大野雄大によると、どうやら木下はすでに空にいるらしい。
いや、エキシビションマッチのバンテリンドームには、ベンチに木下のユニフォームが掲げられ、選手が皆、そのユニフォームに手を当ててからグラウンドに飛び出していった。今ごろ、空から降りてきて、そのユニフォームに袖を通しているのではないか。

今もまだそこにいる木下雄介さんに。心から哀悼の意を表します。

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