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目で音を聴いていた:雑踏の溢れる音の中で

 パートナーの予定変更に伴って散策の帰路が一人になった。
 万が一に備えてバッグにイヤホンを入れていたならよかった、と反省しながらいつもの見慣れた街を、いつもどおりに歩き出したのだが。
 帰省した時には教会や路面電車が走る長崎の音は東京で過ごす日常とは明らかに違い懐かしくて音を拾うように聴いてるのに、私は自分が住んでいるこの街の音を採集するように聴いたことはなかったかもしれないという考えに、ふと落ちる。

浦上天主堂

 「些細な音も聴き取るわ」と自身に小さな宣言をして自宅への道を歩き始めた。
 流石に人が多い道を一人で瞳を閉じて歩く訳にもいかずに精神だけは聴覚に集中させての帰路。
 確かに、これまで車の音と一括りにしていた音らは、ブレーキをかけた音、動き出したエンジン音、車のドア開閉、更にはそれらを発している車種の差でバス、バイクとそれは当然多岐に渡っている。だが、さほど時間が過ぎない時点で私は音を視覚で探した後に聴覚で確認していることに気が付く。
 視覚障碍が無い私は聴覚だけを頼りに音を聴いていない、聴くことが出来ない。

六甲の新緑

 街中で緑が多いのは神社周辺と限られる。
 その緑を見ながら(そう、やはり視覚で)風の音を探そうとした私。

 宮沢賢治は実に多彩な風の音を表現していたことを思い出す。
「りうりう」
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット」
「どっこどっこ」
「どう」
「どっどど どどうど どどうど どどう」
 彼の本を手に取る度に、一人であっても黙読ではなく音読する本なのよね、と考えるのは私だけだろうか。
 宮沢賢治は風の音に限らず音の表現に個性が溢れている。オノマトペの方が余程写実的でさえある。彼は、音を見ていたのかしら、見えていたのかしら。それとも、感性総動員だったのか。

 帰路は案外ビル風も強く、風に吹かれながら神社に付近迄来た時には宮沢賢治のことを考えたりしていた。
 人が溢れているのにも拘わらず、その話し声は本当に少なく、ドラマや映画とも違い後ろから近づく人の気配は感じても案外とその足音は小さいのね、と気が付いた一人の帰り道だった。

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