レオナルドダヴィンチ 「最後の晩餐」
笑いの共有には、大前提としてデフォルメされたり別解釈された「モデル」についての最低限の共通認識が必要。それなしでは何に手が加えられて「不謹慎ながら」笑ってしまう、という展開は起こらない。
パロディ化された「最後の晩餐」はとても多くある。上のイラストのように明るいものから、そこまで品性落として欲しくないと呟きたくなるようなものまで実に様々だ。
一方で、未だ謎深いこの絵は何を意味しているのか、描かれている「夫々の手」のメタファは何か等々絵の謎を解く文章にも会う。
そうした中、最後の晩餐の席を取り合う動画を見て「しまった」。
もう一度!と再度見てしまった。
二次元のパロディは見てきたが、Twitterでみるなんて想像外だったこともあり油断の隙間に笑いが突入した感じだった。
「裏切り物は一人だけですか」と指を立てている重々しく、暗い絵とは対照的にどこまでも明るい。まだ学習が足りない12人の使徒たちを引き連れた先生といった雰囲気のキリストもまた扱い方が斬新。
カトリック教徒の私からみると、若干、軽い?と正直云いたくはなる。だが、2000年以上前のその現場に居合わせていない者たちが描いた絵が、仮令巨匠の手によるものであっても解釈に正解などないことに気付かされる瞬間でもあった。
少なくとも、ヨハネによる福音書13章21節からの「12弟子の中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した時の情景が描かれているとされていることをクリスチャンは前提というより「根底」に置いて、いや、知っていて当然のことであるから、様々な切り口が最後の晩餐以降の世界で起こっているのだろう。
少なくとも、「けしからん」と目くじら立てる人も無く、弾圧されることもない、表現の自由に乾杯。
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