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あたしは不死身の花嫁だ! ―クエンティン・タランティーノ『キル・ビル』―

 私は「戦う女たち」を描く小説を書くための参考資料として、『マッド・マックス 怒りのデスロード』や『肉体の門』などの映画を観た。なぜなら、『ウマ娘』などのように性善説的な「シスターフッド」を描く作品を参考資料にするだけではまだまだ不十分だからである。やはり、「女」の怖さや醜さや汚さや愚かさなどを描く作品こそが、私自身の小説の参考資料にふさわしい。
 そこで私は、クエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビル』2部作をYouTubeで観た。布袋寅泰氏の例の曲が有名だが、もちろんそれだけの映画ではない。ユマ・サーマン氏演じる殺し屋〈ブライド(花嫁)〉が、殺し屋組織のリーダーであるビルとは公私共にパートナー同士だったのだが、彼女はなぜかビルの子を妊娠しつつもビルの下から去り、他の男性と結婚式を挙げたところでビルと他の殺し屋たちに夫を殺され、お腹の中の娘を奪われた。そんな主人公は、瀕死の重傷を負って4年間病院で昏睡していたところで偶然目覚めて、病院から脱出して復讐の旅に出るという内容である。
 ちなみに日本の時代劇に『逃亡者のがれもの おりん』があるが、主人公の設定はどうやら『キル・ビル』と小山ゆう氏の漫画『あずみ』の影響を受けているようだ。それほどまでに、『キル・ビル』は衝撃的な作品だったが、さすがに賛否両論あるだろう(ついでに『あずみ』と『おりん』も)。タランティーノ氏は明確かつ意図的に「荒唐無稽」を描く人なのだろう。

 まずは第一部。主な武器が刀などの刃物である時点で、題名にある「kill」が「斬る」との語呂合わせなのは間違いないだろう。ユマ・サーマン氏演じる元殺し屋の主人公〈ブライド〉は、最初にヴィヴィカ・フォックス氏演じる敵組織のメンバーであるヴァニータを、当人の娘の目の前で倒してしまう。その娘に「私を恨み続けるなら、将来私のところに仇討ちに来い」と言い残して去る。その後の回想では4年ほど病室で昏睡状態だったブライドは、悪徳男性医師に「生きたラブドール」として扱われていたが、目覚めた彼女は男医と「客」を殺し、車を盗み、逃亡した。
 ある意味主人公以上にこの作品を象徴するキャラクター、すなわちルーシー・リュー氏演じるヤクザのボス〈オーレン〉の少女時代の回想は、アニメパートとして描写される。これは日本のアニメ制作会社〈プロダクションI.G.〉が手掛けたものである。さすがに、生身の子役に演じさせるのはきつい場面だよな。そのエピソードの後、沖縄に渡ったブライドは、千葉真一氏演じる「100代目(!?)」服部半蔵に最高の日本刀を製作してもらう事にし、その間に武術の稽古をする。
 ブライドの黄色いスーツはブルース・リー氏のイメージらしい。その出で立ちで敵陣に突入するブライドだが、そこで手下たちに対してのオーレンの例の台詞「やっちまいな!」が言い放たれる。ブライドはオーレンの手下たちを次々と倒す。栗山千明氏演じるふざけたニックネームの女殺し屋〈ゴーゴー夕張〉は、鉄球付きの鎖を武器にする。戦う女たちの作品を観続ける私は、冲方丁氏の小説『マルドゥック・アノニマス』の男性敵キャラクター〈ハンター〉が表向きには他の登場人物たちのような常人離れした戦闘能力を見せずに「策士」に徹する凄みを改めて感じた。

(中国史の戦国時代だって、マッチョな武人よりも「策士」の方が魅力的だもんね)

 新たに敵の大軍、ブライド包囲網。そいつらをブライドが次々と斬り倒す場面がモノクロに変わる。その隙に去るオーレン。ブライドが敵に追い詰められたところでフルカラーに戻り、さらに乱闘、オーレンの腹心を倒し、庭に出る。そこには第一部のラスボスである白装束のオーレンが待っていた。二刀流のオーレンとの一騎討ち。梶芽衣子氏の『怨み節』をBGMにして倒れるオーレン。ブライドはオーレンの腹心だった生き残りの女の身体の一部を切断し、ビルへの伝言のために逃す。
 最後のスタッフロールを見ると、中国系スタッフが多数参加しているのは、後半の内容ゆえである。再び梶芽衣子氏の『怨み節』が流れて、第一部は終わる。

 まあ、この第一部はオーレンがサブヒロインだね。

 そして、続けて第二部を観る。残りの敵はビルの弟バド、ビルの愛人エル、そしてビル本人である。ブライドの結婚式のリハーサルの回想にはブライドの夫トミーが出てくるが、実は後述の通り、かなりの悲劇の人である。そんなトミーに対してビルはブライドの義父を装うが、実はブライドのお腹の子の父親は彼であり、彼はブライドの元恋人である。哀れ、「託卵」被害者トミーさん。
 そこに、ビルの弟バドと、エル、オーレン、ヴァニータの襲撃という悲劇が始まるが、何も悪くないトミーも当然殺されてしまう。一番悪いブライドはなぜか、とどめを刺されずに、お腹にいた娘を奪われ、瀕死の重傷で病院に送られた。
 ビルと弟バドがブライドの前回での「成果」について話す。「おれたちも殺されて当然だ。あの女も同罪だけどな」。そう、ブライドは殺し屋なのだ。そのブライドはバドと対決するが、敗れて棺桶に入れられて生き埋めにされる。

(この辺からさらにファンタジー色が増していく)

 場面は代わり、中国の武道家パイ・メイの話。彼は他の寺の僧侶たちを皆殺しにした僧侶だった。ビルはブライドを彼女の本名の苗字で呼ぶ。何百年も生きているというパイ・メイは、自らが女性や白人やアメリカ人を嫌いつつも、ビル、エル、ブライドを弟子にした。食事マナーも含めて色々と厳しい師匠パイ・メイ。映画とは関係ない余談だが、ある人曰く「箸の使い方が上手くない人に対して『育ちが悪い』と決めつけるのは、階級差別と障害者差別双方につながる」。そう、差別とは「秩序」の問題なのだ。
 場面は生き埋め中のブライドに戻る。棺桶の中で自力で手枷を切り、パイ・メイから学んだ技で棺桶をぶち開け、地上に脱出する。
 さらに場面は、ブライドのライバルである隻眼の女殺し屋、ダリル・ハンナ氏演じるエルの話に代わる。仮に彼女たちが違う世界に生きていれば、むしろシスターフッドで結ばれる関係性だったかもしれない女たちの、最後の者である。いわゆる「女の敵は女」とはむしろ「百合の香り」を放つものなのだ。私はそれを理解出来ない「自称フェミニスト」たちに対していらだちを覚える。「ミソジニー」も「ミサンドリー」も、結局は一種の「媚薬」なのだ。「タブー」こそが快楽を増す要因の一つなのだし。

「本当に人を殺すのは古代の昔から毒ヘビだけだ」

 バドを毒殺するエル。つまりは、真にブライドの「敵」に値する「男」はビルだけなのだ。エルは自分がバドを殺したのをブライドのせいにする。その後、ブライドの本名(フルネーム)が明かされる。ブライドとエルの一騎討ち。便器に顔を沈められるエルが気の毒だが、実は彼女は(ブライドが免許皆伝後に)パイ・メイに右目をえぐられたので、報復として殺害したという。しかし、いくら卑劣な悪役でも、残りの左眼を突かれて完全失明してしまったのは気の毒だな。そんなエルを「正気をなくした」と見なしたブライドは、彼女を殺さずに去っていく。ある意味、殺す以上の非情である。
 父親がいないビルには、父親の代わりである年長男性がいた。その人曰く、ビルは子供の頃から金髪女性に惹かれていた。そんなビルの父親代わりだった男性からビルの居場所を教わるブライドだが、あたしゃ、何だかビルが『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウと似たような人物に思えてきたな。

「動くな、ママ」

 何と、ブライドとビルの娘は無事に生きており、ビルに育てられていた。どことなくハンニバル・レクターを連想させるビル。一旦は仲良し夫婦のような雰囲気を醸し出す元恋人同士だが、ビルは銃で自白剤入りの矢をブライドの脚に打ち込む。スーパーマンの本名「クラーク・ケント」をブライドの本名「ベアトリクス・キドー」と関連付けるビル。
 ブライドは言う。自分は「母親になった」から殺し屋ではいられなくなった。だから、娘を健全な世界で育てるためにビルではなくトミーと結婚するのを決めたという。それでビルは激怒して、凄まじい報復をしたというのだ。
 ついにブライドとビルの最終決戦が描かれる。ブライドは娘を引き取り、一応はハッピーエンドと言えそうな結末なのだが、個人的には納得出来ない点が一つある。

 色々と辛酸をなめてきた主人公ブライドとその他諸々の登場人物たちだけど、一番の犠牲者はブライドの「名ばかりの」夫だったトミーさんじゃないの!? ただ単にのび太が異性愛男性であるのを示すためだけに存在するしずかちゃん以上に「哀れ」なキャラクターではないのか? この映画の最大の欠点はズバリ、このトミーの人物造形である。
 せめて、トミーがどのような人物なのか、その背景をある程度描いてほしかったわ! このトミーの扱いがある程度良ければ、もっと「傑作」と呼ぶにふさわしかったのに! 確か作家の桐野夏生氏が某小説新人賞の某応募作品に対して「女を物語作りの道具にしてはならない」と批判していたけど、『キル・ビル』のトミーさんはまさに「物語作りの道具にされた男」である。それが残念だ。

【布袋寅泰 - Battle Without Honor Or Humanity】

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