通夜

 しとしとと雨の降る夜、三人の男女は傘をさして歩いていた。
「まさか、あの若さで死ぬなんてね……」
 若崎美弥が涙ぐみながらぽつりとつぶやいた。薄手の上品なハンカチを握りしめている。
「ここ寄らない?」
 そう言ったのは神戸航だ。視線の先には二十四時間営業のファミリーレストラン。
「なんだかお腹空いたんだ」
 それを受けて、相田駿介も賛成する。
「いいよ、僕もお腹空いたし。美弥は?」
 彼女はかすかに頷いた。
「いらっしゃいませ」
 まもなく日付が変わるという時刻のレストランに、客はほとんどいなかった。傘立てにも傘は一本もない。平日の深夜なのだから当たり前だろうか。
席に着くなり、三人は一斉にため息を吐いた。そして思い思いにメニューを開く。すぐに注文は決まり、店員に伝える。店員が店の奥に消えると、神戸は口を湿らすように水を一口飲んだ。
「なんか、同窓会みたいな通夜だったな」
 煙草に火をつけながら神戸は呟いた。二人の顔も少しほころぶ。
「まあ、水野優美だから」
 相田が切なそうに言う。
 水野優美は、三人の学生時代の同級生だった。目立つ生徒ではなかったけれど、優しく、誰にでも分け隔てなく接していた。澄んだ声は小さくてもよく通り、国語や英語の授業で音読をするときなどは、彼女の口から出てくる滑らかな音に、教師も聞き惚れたほどだ。
「いい子だから、通夜も人が集まったのかな」
 涙声で言う美弥。
「あたし、優美ちゃんが死んだって聞いた時、何かの冗談だろうって思った。きっと生きてて『びっくりした? どっきり大成功!』なんて、あの笑顔で出てきてくれると思ってたの。なのに今日、泣いている優美ちゃんの家族を見たら、ああ、やっぱり死んだんだって」
「水野優美が、まさか殺されるなんてね」
 神戸の発言に、他の二人は身を固くする。相田は険しい顔をし、美弥は手をぎゅっと握りしめた。
「ちょっと神戸、公共の場でする話じゃない」
「俺たち以外に誰もいないのに? な、いいよね若崎」
 口を開いた美弥を制して、相田が唸る。
「美弥に同意を求めるな! 答えなくていいよ、美弥」
「いいよ神戸君。それが本当のことだから」
 彼女の声は涙声から普通の声にようやく戻っていた。
「水野優美は一週間前、この近くの飯田駅で線路に突き落とされた」
 神戸が話し出す。
「目撃者によると、犯人は優美を突き落としてすぐ、ホームの反対側から発車する電車に乗って逃走。以後行方知れず。死体は損傷が激しく、指紋などが取れる状況ではなかった。相田、この事件どう思う?」
「……最初の印象は『本当に事件なのか』だったよ」
 しぶしぶ相田は答える。
「お前は事故だと思ったってことか?」
「そうだよ」
 相田はうなずいてウーロン茶を一口飲む。
「そうか……」
 神戸は顎に手を当てて考え込む。下を向くと整った顔に影が差す。
 話が途切れたタイミングで、店員が注文を持ってきた。それぞれが受け取ると、店員はさっさと出て行った。三人が人に聞かれたくない話をしていることに、なんとなく気づいているのかもしれない。
「僕が事件を知ったのはニュースで、だった。優美は注意散漫なところがあったから、酔っぱらったのか歩きスマホかはわからないけど、本人の不注意で落ちたんじゃないかって思ったよ」
 相田が言うと、美弥がうなずいた。彼女も同意見ということだろう。
「実は俺も、最初は二人と同じ印象を持った。でも次第に事故だとは思わなくなった」
「どういうこと?」
 美弥がたずねる。事故でも、殺人でもないとしたら…。
「自殺だよ。俺は水野優美が自殺したと思ったんだ」
 その場に沈黙が訪れた。神戸がつけている腕時計の音が、殊更大きく聞こえた。
 沈黙を破ったのは神戸だった。
「そう思う根拠は何? って顔してるな」
 美弥がかすかにうなずく。
「水野って、昔からどこかに消えてしまいそうな奴じゃなかったか。だから俺は自殺だと思った。これで納得か?」
「まあ、なんとなくは」
 相田が険しい顔で同意する。そして、神戸は小さい声で、しかしはっきりと言った。
「だけど今はそう思っちゃいない。警察の言う通り、水野優美は殺された。そして犯人は元同級生の誰かだ」


 その場は凍り付いた。神戸は『元同級生の誰か』と言ったが、二人を誘ってここに来て、事件の話を持ち出したということは……。
「あたしや相田君を疑ってるの?」
 神戸は事もなげに肯定する。美弥は目を見開いた。
「まあ、ほかのクラスメイトも怪しいっちゃ怪しいけど、最有力容疑者はお前らだ。だからここに誘ったんだよ」
 鼻筋の通った端正な顔が、美弥と相田をにらみつける。
「じゃあ、聞かせてくれるかな。僕たちを疑う理由」
 どこか挑みかかるように相田が唸った。それを神戸はせせら笑って話し出す。
「そうだな……。まず相田。お前、優美と付き合ってたんだろ?」
 中学時代、相田と優美は恋人同士だった。二人は『付き合っていることは秘密にしよう』と決めていた。だが実際は、ほとんどの生徒が知っていたのだ。そして、生徒たちは悪気なく悪口を言う。「優美と相田君じゃ釣り合わないよね」「別れなよ優美。優美ならもっといい人がいるでしょ」。
「確かに僕と優美は付き合ってたし、悪口に悩んでもいたよ。だけど、それが動機だって言うの?」
「お前と優美のことをばらしたのは優美本人だった。大方、舞い上がって話しちまったんだろう。そのせいでお前は悪口を言われた」
「だから優美を恨んでいるって言いたいわけ? いくらなんでも、それで殺したりなんてしないよ!」
 相田は大声を出す。神戸は動じずにただ肩をすくめた。
「さあな。相田って意外と粘着質だし。お前のその怒りっぽいところは、自信のなさから来ていると思うんだけど、その性格を作ったのは、あの時の悪口じゃないか? だとしたら……」
 お前が優美を恨んでいたとしても不思議じゃないだろう?
「僕は犯人じゃない」
 低い声で相田は呟いた。もはや怒りを隠そうともしていなかった。


 相田は完全に怒ってしまったのか、口を利かない。黙って料理に口をつけるだけだ。美弥は二人の様子をちらちらとうかがいながら、水を飲む。
「あたしが優美ちゃんを殺す動機は? 神戸君は、あたしのことも疑っているんでしょう?」
 神戸に向けての質問だ。神戸はゆっくりと口を開く。
「若崎は本当に優美の親友だった? 俺にはなんとなくぎくしゃくしているように見えたな」
 美弥は淋し気に薄く笑った。相田のように怒ったりはしない。
「そうだね。あたし自身、中学に入ってからは優美ちゃんのことを『親友』だとは思ってないよ」
 若崎美弥と水野優美は幼馴染だ。幼稚園から同じクラス、なんなら生まれた病院も同じだった。
「神戸君は鋭いなあ。あたしね、小学校の時に優美ちゃんともめたの。神戸君も相田君も、小学校は別だったから、詳しいことまでは知らないと思うけどね」
 怒っていた相田も落ち着いてきたのか、美弥の方を見ている。
「優美ちゃんにはお姉ちゃんがいるんだ。ほら、今日ずっとハンカチで顔を覆ってた人。まあ、優美ちゃんより少し早く生まれただけなんだけどね」
「年子だったってことか」
 その水野成美と美弥は仲が良かった。美弥は何度も優美から姉の話を聞いていたが、肝心の本人に会ったことは一度もなく、どんな人なのか気になっていた。成美は訳あって別の小学校(神戸や相田とも別)に通っていたからだ。ある日、学校帰りに美弥が水野家に寄った時、美弥と成美は出会ったのだ。と美弥は当時を懐かしむように、淋し気な笑顔で説明した。
「成美ちゃんはとても優しくて、私はすぐ彼女が好きになった。それから、あたしは成美ちゃんとばかり遊んでた。そしたら優美ちゃんは、あたしと彼女を引き離すようになったの」
「姉に美弥を取られて淋しかったんだな」
 分かったような言い方で相田は呟いた。しかし美弥は笑って首を振る。
「あたしに成美ちゃんを取られて淋しかったの。その証拠に、優美ちゃんは他の友達にはかたくなに成美ちゃんの存在を隠すようになったし、あたしと遊ぶときに彼女を連れてくることもなくなった。もちろん、あたしを家に招いてくれることも。家に行きたいって言ったら、優美ちゃん怒って、あたしを叩いたの。そのあと悪口もたくさん言われた」
 当時を思い出したのか、美弥の顔が悲し気にゆがむ。
「お姉ちゃんを取られて嫌だったなんて、優美ちゃんのこと子どもっぽいなって思っちゃった。今考えたら、気持ちはわかるんだけど。でも子どもの時の私は子どもっぽい子が嫌いだったの。だから、少し優美ちゃんのこと嫌いになって。確か、呼び捨てをちゃん付けに変えて距離を置いたのもそのとき」
「なるほど」
 神戸は重々しくうなずいた。


「でも、神戸君にも動機はあるでしょ?」
 美弥が震える瞳で神戸を見据えた。
「あたし、知ってるよ? 神戸君は、優美ちゃんのことが、嫌いだった」
 自分に言い聞かせるように呟く美弥。彼女の震える瞳と神戸の冷たい瞳がぶつかった。
「水野は優等生ぶってる偽善者だ、あいつはそんなに優しいやつじゃないって、神戸君いつも言ってた」
「言っとくが、俺は殺ってないからな」
 神戸は美弥の方に体を向けた。その顔は嫌味な笑みを浮かべている。
「俺が水野を嫌っていたのは確かだ。でもそれだけで殺したりはしない」
「嫌いならどうして、通夜に来たの?」
「水野が死んだって悲しくもなんともなかったが、同窓会気分を味わいたかったんだ。それに、クラスメイトが悲しむ顔も見てみたかったしな。本当、いい気味だ。でも不思議だよな。みんな何であんなに悲しむんだ? 水野の死に何の価値があるっていうんだよ?」
 美弥の動きは速かった。手元にあったコップを持って、水を神戸に浴びせかける。
「サイテー」
 低い低い声で美弥は吐き捨てた。そして千円札をテーブルにたたきつけて、足早に店を出ていく。
「美弥!」
 相田は叫んで立ち上がった。しかし美弥の姿はもう見えず、座りなおす。
「追いかけなくていいのか?」
 ハンカチで水を拭きながら、神戸は問いかける。
「いいよ。あいつは冷静になるのが早いタイプだし。それより大丈夫?」
「大丈夫だ。水も滴る何とやらって言うしな」
「冗談を言う余裕があるんだね……」
 呆れながら相田は、これも使ってと自分の鞄からハンカチを出した。
「ああ、悪い。にしても、まさか若崎が切れるとは。親友でもないやつのために、なんであそこまで……?」
「親友じゃなくても、美弥にとって大切な友人の一人には違いないよ」
「まあ、そういうもんか……」
 神戸はまだ納得のいかなさそうな顔をしていたが、ふと思いだしたようにこう問いかけた。
「どうして相田は切れなかったんだ?」
 笑って相田は答えた。
「僕は誰かが切れていたら逆に冷静になれるタイプだから」
 美弥が切れたから僕は怒らずに済んだんだよ、と水を一口飲んだ。それにしたって、神戸は煽りすぎじゃない? いくら美弥でもあれは怒るって、と言い募る相田を適当にあしらって、神戸は考えの海に沈む。彼の頭の中で美弥のセリフが行き来する。
(優美ちゃんより少し早く生まれただけなんだけどね……。成美ちゃんは、私がいた学校とも、相田君たちがいた学校とも違うとこに通ってて……。)
「……べ? 神戸?」
 相田の声に気づいて顔をあげる。彼は不思議そうな顔で神戸を見ていた。相田は童顔だ。学生の頃から面立ちがほとんど変わっていない。顔を突き合わせていると、まるで学生時代に戻ったような気がする。
「どうしたの神戸。なにか気になることがあるの」
「いや……。なあそれよりさ、水野の話でもしてやろう。こんな機会、もうないだろうし」
「彼女を嫌ってた神戸に言われたくはないんだけどな……。っていうか、僕たちを疑ってたんじゃなかったの?」
「もういいんだ。多分、若崎もお前も犯人じゃない」
「疑いが晴れたならいいけど」
 二人は時間も忘れて話した。水野優美の美談はいくらでも出てきた。弁当を落とした時におかずを分けてくれた。体調不良のクラスメイトにいち早く気づき、保健室に連れて行った。友人の相談によく乗っていた。放課後の教室で人知れず掃除をしていた。
「やっぱ、いい子だったんだね」
「いい子だって、いつも言われてたからな。本性はどうだか知らないが」
「またお前はそういうことを」
 グラスワインを一杯ずつあけた二人は、なんとなくふわふわした心地でレストランを出た。降り続いていた雨は、二人で話しているうちに止んだらしい。神戸も相田も少し酔っていたが、傘立てから傘を取るのは忘れなかった。傘立てには、二人のものより小ぶりな、紺色の傘が残っていた。


 若崎美弥は、ずっと眠り込んでいた。職場には体調不良で休むと伝えてある。とにかく今は、動きたくなかった。枕元に置いてある携帯がなった。寝ぼけ眼で携帯を手に取り、電話に出る。
「若崎。もしかして寝てたのか?」
「ええ。でもそろそろ起きなきゃね。何か用があるの? 神戸君」
「水野優美のことなんだ」
 美弥はため息を吐いた。出るんじゃなかった、そう思った。
「俺、自分なりに考えてみたんだ。若崎の発言と態度から、事件の真相をな。聞いてくれるか?」
 神戸の説は、水野優美と成美は一卵性双生児ではないか、というものだった。『少し早く生まれただけ』というセリフを、神戸は年子だと解釈したが、双子にもこれは当てはまるのではないか。そして、成美が優美とは別の学校に通っていた理由は、見た目がそっくりで友人や教師が見間違えてしまうから。
「だったら、殺されたのは成美かもしれない。DNAは同じ、指紋は取れない。となると、身元はその時持っていた免許証か何かで特定したんじゃないか?」
「だとしたら、どうなるの?」
「こういう仮説はどうだ? 優美は事件前日、成美に会い、明日一日だけ入れ替われないかと提案する。成美は了承し、服装や荷物を入れ替え、水野優美として優美の職場に向かう。優美はタイミングを見て自分も駅に行き、成美を突き落とす。遺体は優美のものとして処理され、優美は成美として暮らす……。聞くところによると、水野成美はこのところずっと仕事を休んでいるらしい。忌引き休暇は3日なのに」
「妹が亡くなってショックなんでしょ」
「人を殺したショックかもしれないよな?」
 美弥の携帯を持つ手が震えた。
「若崎は、成美が亡くなったと思ったんじゃないのか? 通夜にいたのは、ハンカチで顔を覆った女性。だから俺たちは彼女の顔を見ていないけれど、もとから双子だと知っていた若崎なら、入れ替わったんじゃないかって思いつけるよな?」
「だったらなんだって言うのよ」
「お前が切れた理由がなんとなくわかったんだよ。もし若崎が、殺されたのは成美だと思っていたなら、あの時の俺の言葉に切れるのも納得だ。俺は優美のことを『水野』と呼んでさんざんけなした。でも若崎にとっては成美も『水野』だ。だからあのとき、お前は成美が悪く言われているような気がして怒った……」
「……面白い仮説ね」
 美弥は自分の声が震えているのを感じた。震えは神戸にも伝わってしまっただろうか。
「でも神戸君、本当にそれでうまくいくと思う? 双子の入れ替わりトリックなんて、大昔のミステリーじゃあるまいし。今の科学技術じゃ、すぐばれるんじゃない?」
 電話口で、神戸のため息が聞こえた気がした。
「だから『仮説』だって言ったろ。俺だってこれが正解だとは思っていないからな?」
「そう……」
 美弥は不自然なほど短く答えた。そして、ぷつりと電話を切った。


 神戸は電話を切られた後も、悶々と考え込んでいた。もし相田の言う通り『姉に美弥を取られて悔しい』と優美が思っていたとしたら、成美を殺し、成美に成りすます動機は優美にもあることになる。
 美弥は優美のことを親友だとは思っていない、と言っていたが、優美の方はどうだったのだろうか。小学生だったあの日からずっと、美弥への執着と、美弥を引き付ける姉への憧れがあったとしたら、それは十分な動機にならないだろうか。
「まあ、考え込んでも意味ないよな」
 執着や嫉妬なんて、水野優美には似合わない。彼女を知る人の多くがこう言うだろう。
(俺の考えは単なる思い付きで、馬鹿げた仮説だ)
 電話のときの、冷静な美弥の声を思い出す。震えてはいたが、落ち着いた声。
 事件の真相はわからないままだ。こんな推理小説があれば、読者は金を返せと言うに違いない。もやもやとした感情に背を向けて、神戸はスマホを鞄に放り込んだ。

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