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極私的美術レポート:『TOPコレクション メメント・モリと写真―死は何を照らし出すのか』


先日授業前に、クラスメイトとともに恵比寿にある東京都写真美術館に行ってきたのでそれについて記録を残そうと思う。


タイトルを決めかねており、レポートと題しているものの、いつものごとく、ほぼレポートせず長々と自分の話ばかりなので、お気楽に!

(自分は展覧会に行くとき、室内に他の来館者の足音などが響いたりして気になる場合はごく小さい音で音楽を聴くのですが、その時選んだ曲に続いてランダムに流れた音楽がたまたま雰囲気と合っていたので残しておきます。)




0.


写真美術館では現在2つの展示が行われている。

まず向かったのは、2階展示室で行われている展示、『TOPコレクション メメント・モリと写真ー死は何を照らし出すのか』である。


https://topmuseum.jp/upload/3/4278/MementoFlyer.pdf (フライヤー)




恥をしのんで先に述べておくと、自分は昔から、どちらかと言うと絵画や彫刻、版画など誰かが作ったものを見に行くことが多く、写真はどうみたらいいのかわからないというのが写真に対する正直な気持ちだ。

そのため写真美術館を訪れるのはかなり久しぶりで、遡ったところ2017年に写真美術館の総合開館20周年を記念して開催された『荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-』以来であった。

https://topmuseum.jp/upload/2/2866/araki_0803.pdf (当時のフライヤー)

自分は写真の芸術性に対し、撮影者とその対象の関係性を「記録」という方法で表現する側面が大きいように思っている。

ただ、90年代以降に生まれた自分にとって写真があまりにも身近な存在となってしまっているために、その記録に対して、自分なりに考えを巡らせたり、入り込んでいく隙が無いように感じられるのだ。


答えが明確にあるような気がするし、自分が考えても、考えた末どこにもたどり着けず果てしない感じがする・・・うまく言葉にできなくてもどかしい。


記録は記録でも、自分にとって本当に素晴らしい写真であれば心が動かされるし、それは芸術にほかならないのだが、ありふれた感動で飽和してしまっている自分は、心を動かされる準備(なんてかなしい言葉だろうと自分でも思う)をしていかないと、切り取られた瞬間に対しなにも感じることなく素通りできてしまうのだ。


その自分と対峙するのは苦しいので、写真展は1年に一度行くか行かないかというくらいの距離を保っていた。

なぜ今回この展示を見に行ったか、それは今回同行した美術展にほとんど行ったことがないというクラスメイトが興味を持ったからとか、場所が学校から近いとか、きっかけは沢山あるのだが、自分が写真という表現について恐れている部分と、「死」というテーマが明確に交わることについて単純に興味が湧いたからだった。


「死」という一番身近な主題が前提にあることで、写真に対し、かなり気軽に接することができる感じがしたし、実際そうだったと思う。


1.


第一章<メメント・モリと写真>。
扉を入って一番最初に、ずらりと見る者を囲むように、ハンス・ホルバインによる『死の像』の25もの版画が展示されていた。


この作品群は『死の舞踏』に収録されており、同テーマをもとにしたものだ。
死は老若男女階級問わず、平等に訪れるさまを描いている。

メメント・モリという言葉について、現代では「死を意識することで、今この瞬間を大事に生きよう」といったポジティブな捉え方が主流だと思うが、ここで描かれるのはペストの流行で多くの人が命を落とした時代の「死は必ず訪れることを忘れるな」という意味だろう。


この数年、日本では死を意識する出来事が続いている。
さらに新たな感染症の流行が今まさに我々をおびやかしている。


写真の前にこの版画があることでその後の姿勢が取りやすかったし、正直この木版画たちを間近で見られただけで満足度が高かった。


あと、作品に関係ないが、写真美術館は展示室に足を踏み入れた瞬間からいいにおいがした。

美術館というものはたいてい作品の状態もあってか、木とか、すこし甘いにおいがしていて、それがまた落ち着くのだが、ここはさわやかな香りで洗練されていた。
それがいっそうテーマと合っている気がした。
(においと記憶の関連を日々思っていて書きたいのだが、とにもかくにも書きたいことが多すぎるのでいつかまとめたい)


第一章では戦争写真が続き、「死」そのものが記録の対象となって、まざまざと見せつけられるような、無力さを感じる始まりだった。


2.


お、と思ったのは、第二章<メメント・モリと孤独、そしてユーモア>を見始めたときだった。


荒木経惟の「センチメンタルな旅」からの作品がいくつか展示されており、5年ぶりに再会したのだった。

あの時とはまた違った印象、より死の気配を濃厚に感じられて、以前見た作品と時間を超えて出会うのは楽しいと思った。


その間も荒木氏は何かと世間を騒がせたが、それに関して現時点で自分が述べることは無い。
その生と死をみつめ続ける作品たちは、相変わらず強烈なパワーで自分を奮い立たせた。

この章は、わりと強く生を描くことで死を想う作品が多かったように思う。


3.


第三章<メメント・モリと幸福>では、静物や風景の写真が多かった。

おぼろげだが、自分が生きてから死ぬまでの直線的な一方向の時の流れを超えた時間を感じさせることで生と死をみつめる、みたいなことが書いてあって、自分はその説明書きが一番すっと入ってきた。


最初に展示されているのは藤原新也という作家の作品で、タイトルに名言ともとれる言葉が付けられていた。

アジア各国を旅するなかで「日本人に決定的に欠けているものは死であり、生の輝きを取り戻すために死が必要である」と考えたそうだ。

自分はこれに関して、その考えが自分の中にも穏やかながら存在するため、生きている感覚を得るために発作的に自転車で見知らぬ山道を走ってみたくなったりしてしまうのだが、確かに、生きているというより、死んでいないと言ったほうがしっくり来るようなこのいまの感覚には響くものがあった。


ただ、彼の言葉は断定的というか、今の自分にとっては強すぎる言葉たちが並んでいたので一定の距離を保ってさらりと見ていったが、
《あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから》というタイトルの作品は、変わらず断定的ながら、今の自分には強すぎても、いつか響くときが来るだろうな、と思いながら次の章へ足を運んだ。


3.+α


私が今回の展示で一番好きだと思った写真家の、一番好きだと思った作品をこの章で見つけた。


それはヨゼフ・スデックの『(森の中のベンチ)』である。


題そのままに、森の中で落ち葉にまみれた古いベンチの写真なのだが、とても静謐な、しんとした空気をまとった作品だった。
その余白のある作品を見て、自分はそこで初めて、考える・感じる隙、自由さを感じた。


帰宅後に見た解説によると、チェコの写真家で、第一次世界大戦で右腕を負傷し、のちに切断したが、その際受け取った補助金で写真を学び、プラハで写真を撮り続けたそうだ。


生涯独身で、孤独ゆえの繊細さから「プラハの詩人」と呼ばれた、ヨーロッパでは有名な20世紀を代表する写真家らしかった。

日本の写真家もたいして詳しくないが、今回見に来なかったら確実に知ることもなかったか、あってもずっと先だっただろう。

こういった出会いがあるからこそ、展覧会というものは楽しいなと心から思った。


彼は第二次世界大戦の戦禍において、ナチスによって活動が制限された際、自身のアトリエの窓から見えるものや、アトリエや自宅周辺の撮影を続けたそうだ。

生前、特定の思想や政治的な関わりを避け、朝のプラハや森を撮影し、クラシック音楽を好んでいつも聴いていたという。

周りは社会的な写真を撮るなかで、
「写真というのは平凡なものを好む。私はアンデルセンの童話のような、命を持たない物を被写体にして写真によるストーリーを語りたいんだ」
という晩年の言葉が残っている。


自分は、これこそ、生命を持たない物体によってその人生が語られるときにこそ、生きることのあたたかさ、すなわち、常にそばに潜んでいる死の気配の物悲しさが感じられると、写真を前にして感じた。


今を大事にしようとか、死は必ず訪れるとか、そういった警句としてのメメント・モリはもちろん大事にすべきなのだが、今の自分にはどこかすとんと落ちないところがあった。

彼の作品を見て、自分の「諦観」を大事にする姿勢や死生観と重なった。

死生観こそ、自分自身もここ数年でどんどん新たになっていったし、今後もそれは続いていくだろう。

常に死と共存していることを恐れながらも、それに心をおびやかされることなく、自分のなかで正しく恐れることで、ぶれずにただ本質を見続ける努力をしたい。

それが現在の私にとってのメメント・モリのひとつの解だと思う。



切り取った瞬間からそれは過去のものとなる。
その瞬間の生によって死の気配が色濃く写し出される、写真という表現に対しての見方がまた一つ自分の中で新しくなった。


自分は学がないぶん、新しいものを知る機会が多い。
ものの見方がほんの一度の体験であっさりと更新されていくさまは、自分で自分を見ていてとても面白い。

新たな視点を得たことで、写真を生でも、書籍でももっと見てみたくなった。



そして、こういった出会いを求めて、自分はまた飽きもせず、展覧会に足を運ぶだろう。




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