透明人間の町
映画館は好きだ。
互いに見ることも見られることもなく、しかし、存在をぼんやりと感じ取れる。
同じ理由で夜も良い。
ただし、すれ違う人の存在だけがそこにあり、人格や刺激のやりとりはないものに限る。たとえ人ならざるものであったとしても、そのルールの上であれば、僕は喜んで受け入れるだろう。
エンドロールが終わり、辺りが明るくなる。
映画館を出た後、適当なカフェに立ち寄ってコーヒーを飲みながら映画の半券を手帳に貼る。
これは子供の頃からの習慣だ。別に確固たる信念があるわけではないのだが、今まで蓄積してきたものを無駄にするような気がして、なかなかやめることもできない。
ただ、この日はうっかりしていた。いくら探しても半券が見当たらない。
財布の中か?服のポケットか?それとも、レシートと一緒に捨ててしまったか?
思い当たる順にごそごそとやっていたが、あいにく見つからない。
「……あの、これですかね。探されてるの」
眼鏡をかけた男性が、やや不安そうにこちらをのぞき込んでそう言った。
彼が手に持っているそれは、まさしく僕が探していたものだった。
「それ、それです!」
僕が手を伸ばして受け取ろうとすると、彼は半券を持った手を少し引き、
「映画、お好きなんですか」と聞いてきた。
この時僕は「この人と関わるのは面倒そうだ」と思ったが、同時に「関わる必要がある」ことも理解した。
「私、とある鳥のコミュニケーションについて研究している、羽宮大輝という者です」
そういって彼は名刺を差し出す。
「はあ、水田清一です。……とりあえず座ってください。羽宮さん」
僕がそう言ったのを聞くと、彼はぐちゃりと微笑んで向かいの席へ腰を下ろした。
僕が名刺を自分の方へ引き寄せると、羽宮さんも半券を更に手元へ近づけた。
「半券、拾ってくださってありがとうございます。要件は何でしょうか」
早いところ済ませてしまいたかった。他人が突然人間になるのは、僕の最も苦手とするところだ。
「私は研究の一環で様々な場所を訪れるんですが、先日訪れた地域で、少し不思議な噂を耳にしまして…………あの、『透明人間の町』をご存じですか?」
「それは、どれくらい本気で言ってるんですか?」
「もちろん、信じていただく必要はありません。ただ、どうにも自分一人の胸の内に秘めておくには心細いということでして——」
「なるほど。それなら僕は話し相手にちょうど良さそうだ。なんにせよ、早いところ済ませてもらえるとありがたいですが」
僕は殆ど残っていないコーヒーのカップを手持ち無沙汰にいじりながら答える。
「『透明人間の町』。実際の規模は町というより商店街といった方が適切そうですが、とにかくそれは、ここからずっと南へ行った先の県境にあるらしいんです。ちょうど廃線になった影乃谷駅の辺り、といえば伝わりますかね」
「そこには、一人も人間がいないらしいんです。いえ、今のはよくありませんでした。訂正します。正確には、『透明人間だけがいる』と言っていました。その町を構成する住民の全員が、透明人間なのだと」
そこまで言い終えると、彼はこちらの反応を伺っているようだった。
反応も何も、そんな中身の無い話にどう返答しろというんだ。だってそもそも、
「羽宮さん。野暮なのかもしれませんけど、そもそも、その噂の主はどうやって『透明人間がいること』を確認したんでしょう?関知されないから、透明なのでは?」
もう十分話は聞いた。あとは彼がほんの少しでも面食らって、深刻ぶった作り話の破綻を恥じ、映画の半券を残してこの場を去ってくれれば良かった。
しかし彼の返答は、
「さあ?」
かえってこちらが肩透かしを喰らうものだった。
「とにかく、そこには透明人間がいるんです」
先程までどうでも良いところで訂正を差し挟んでいた彼がここまで言い切っているからか、その語り口には、妙な気迫というか、真実なのではないかと誤認させるような迫力があった。
「……もう、お話は終わりで良いですか。僕の方まで変になりそうだ」
僕は気を落ち着けるため、目をつむりながらそう答えた。
するとどうやら彼は満足した様子で、
「変な話に付き合わせてしまってすいません。こちらは幾分かすっきりしました。ありがとうございました」
と言って、半券をこちらに差し出し去って行った。
透明人間の町。南の県境。影乃谷駅。
どうでも良いはずの言葉が、僕の頭の中をしばらくの間ぐるぐると巡り続けていた。
あれから2週間。最寄りの駅から歩いて2時間。
「バスを待つ方がかえって時間がかかる」と歩き出したのを後悔したのは、どれくらい前だっただろう。僕は結局、例の影乃谷駅までやって来てしまった。
うわさが本当だとか、嘘だとか、そんなことが気になったわけではない。
いや、最初はそれを確かめたい気持ちもあったはずなのだが、歩いている内に「ここまで来たんだから本当であってくれ」という考えが膨らんでいき、僕はその時点で正当な判断を下す権利を失った。
辿り着いたのは、あの人が話していた通り、商店街のような場所だった。
ほとんどの店がシャッターを開けているのだが、人っ子一人みえない。
まるで、手の込んだ模型のようだった。
試しにいくつか店へ入ってみたのだが、どこも無人販売所のように代金を入れる箱と品物が置かれているだけだった。とりあえずはペットボトルの飲み物を買って、適当なベンチへ腰を下ろし、休むことにした。
今日は幸い太陽が出ておらず、暑さもそこまでではなかった。ニュースでやっていたが、今年は冷夏というやつらしい。
ベンチの背もたれに寄りかかると、深いため息がこぼれる。
僕はここが気に入りはじめていた。
誰からも邪魔されない。「自分」を中断させられない。
そして他の人間が、透明人間がいるのかは知らないが、ここには生活らしき存在があった。
ここは暗くなった映画館に似ていた。ここは夜道に似ていた。
向かいの古ぼけた店、その扉が勢いよく開くまでは。
「うわー!お客さんじゃん!アレ聞いて来た感じ?だよね?」
苦手な手合いだった。一目見て合わないと思った奴は、とことん合わないと決まっている。
「……アレってのは、噂のことですよね」
「そう!その通り!」
「あの、あなたは……」
「あれ、こういうときの礼儀を知らないの?『人に名前を聞くときは~』ってヤツ!」
「それもそうですね。僕は——」「碓氷鈴です!」
「……水田清一です」
心底相手をしたくないタイプだと分かった。こいつは中学生くらいか?
こういうとき、自分に大人としての良心があることを再確認できる。
「碓氷さんは、なんでこんな所に?僕と同じですか?」
「いやいや!私はここに住んでるんだよ!」
住んでいる?
「じゃあ、噂は噂に過ぎなかったってことですか」
「ちがうよ!ここは『透明人間の町』でしょ?なんでわかんないかな~」
発言の意図が掴めず、思考も停止しかけた僕に碓氷は続ける。
「だから~、透明人間なんだよ!私!」
このまま話を聞く意味があるのか、それを考える気力すら削がれていた。
「……現に、僕には君が見えてるわけだけど」
「そうだね!でもね、私からすれば皆はまだ甘いよ!」
「皆っていうのは、他に誰かいるってこと?多分、透明人間が?」
「当たり前じゃん!何回言わせるのさ、ここにいるのはみ~んな透明人間なんだよ!」
もしそれがいるのなら、碓氷よりよっぽど一人前だと思う。
そんなことを言う前に彼女は続けた。
「でも皆は、『自分を秘密にして透明人間』なんだよ。正直甘いね。私は、『何も隠していないから透明人間』なんだ。何から何まで筒抜け!透過率100%の本物ってこと!」
そう言うと彼女はおもむろに左側を向き、
「ね、尾形さん!」
と、ただの空間に呼びかけた。
結局僕は、暗くなるまで碓氷に付き合わされた。
店の紹介を一通りしてもらったのだが、いちいちうるさいというか、まさしく知っていることを全て話さんとする勢いだった。
そして店の紹介には、店主の詳細な人物紹介が必ずついてきた。
「なあ、碓氷はどうして透明人間が見えるんだ?」
「あ~。それ、言うと思った!かなりつまんないよ!」
「いいから、早く教えてくれ」
「教えたいのはやまやまなんだけどさ、こればっかりは私にも教えられないんだよね。ざっくり言えば『コツがある』ってやつで、透明人間ならみんな無意識的にできるんだけど、そうじゃない人向けだと、説明するための言葉が備わってないっていうか。ほら、方言とかでもあるでしょ?こういうの」
「そこをちょっと頑張って教えてくれないか」
「面倒くさいね!でも考えるとー……。まず、目を開けるでしょ」
せっかくなので、説明に合わせて意識的に目をパチッと開ける。
「そしたら、広げるっていうか、横に。横なのかな?とにかく広げるんだよ!そしたら、ぶわっと入ってきて、見えるようになるって感じかな!」
僕は数秒間、手当たり次第に目に力を入れてみたが、見えるようになる気配は一切無かった。
「え?もしかして今、頑張ってた?」
「ダメだったけどね」
「ンハハ!結構面白かったよ!良いね!グッドグッド!」
そうこう言いながら歩いていると、僕たちは倉庫のような場所に着いていた。
「ここが私の家!正確には2階がそう!」
碓氷はドアを開け、階段をかけ上がっていった。
僕が2階へ着くと、元は事務室だったであろう部屋に、無理矢理ベッドが詰め込まれたような、そんな空間が広がっていた。
「で、お客さんはこっち~!」
彼女は奥の廊下へ飛び出し、すぐに左へ曲がった。
「水田さんはここに寝泊まりで~す!」
金属製のラック、積み上げられた段ボールからは分厚いファイルが顔を覗かせている。ここ、どう見ても資料室だよな。
そんなことより、
「準備しなくて良いよ。僕、バスで帰るから」
「え?今日もう無いよ?」
「……え?」
携帯でバスの時間を確認すると、碓氷が言っていることは本当らしかった。
まだ20時なのに。
「……ありがとう。お世話になります。明日の朝には帰るから」
「それも多分無理。明日はバス、止まると思うよ~」
地図アプリの注意マークは、「豪雨による運転見合わせ」を示していた。
天気予報は、都合の悪いときに限って当たる。
それは今回も例外ではなく、雨はうるさいくらいに降りしきっていた。
「おはよう!水田さん!じゃあ私ちょっと行ってくるから!」
「『行く』ってどこにだよ?こんな雨の中——」
「見回りだよ、見回り!来る?」
することも特にないので、僕は碓氷について行くことにした。
「皆、店開けてるみたいだな」
「……そうだねえ」
「そういえば、なんで見回りなんかに出たんだよ」
「私、ここのトップなんだよ?昨日言ったよね?」
昨日だって?碓氷はなんでもかんでも喋るものだから、こちらが適当に流してしまったのかもしれない。
「言ってた、かな」
「まあいいや。とにかく朝は一通り見て回るのが日課なの、トップだから。いや~、責任重大だね。トップだから」
「えらいね、碓氷は」
しかし、雨か。
もちろん、サッと行ってパッパと済まそうなんて思っていた訳じゃないけど、いつでも帰れるのと帰れないのとでは、話が別だ。
それに、碓氷といるのは結構疲れる。主に精神的に。
子供だから、完全に無下にするわけにはいかないし、話がどこまで本当なのかわからない。そもそも、こいつの置かれた境遇がいまいち飲み込めていないのも不安だ。
碓氷は、放っておいて大丈夫なのか?
「そういえば今朝食パン食べて思い出したけどさ~、6枚切りだと損した気分になるよね!8枚切りなら、8回食べれるわけじゃん?それが6回に……」
「一度に食べれる量は増えてるから、それで帳尻が合うだろ」
「この機微を感じ取れないのかな~、この機微をさ~」
もしかして機微って言葉、最近覚えたんじゃないか?
そんなことを考えていると、いつの間にか倉庫まで戻ってきていた。
「よし、見回り終了~」
「これからどうするんだ?」
「いつもならテキトーに漫画読んでるんだけど~、今日は水田さんもいるから~、かくれんぼに決定しました!」
それから僕はしばらくの間、倉庫でのかくれんぼに付き合わされた。
碓氷は段ボールの中に隠れてみたり、荷物の間へ器用に潜んだりしてみせるのだが、常にがさがさと音を立てて動き回っているので、僕は気をつかって見つけられないふりをするばかりだった。
しかし不思議なのは、誰も荷物を取りに来ないことだった。
あまり売れ行きが良くないのか、それとも、この倉庫自体が使われていないのか。
そもそも、この町のことを理解しきれたわけじゃない。
その夜僕は、寝息を立てている碓氷の横をすり抜け、ここが本当に「透明人間の町」なのか調べることにした。
弱まってはいたが、雨は依然降り続けていた。
今の時刻は、ちょうど0時。それにも関わらず店は閉まっていない。
明らかにおかしかった。
開いている店へ、恐る恐る入ってみる。
確かここは、僕がこの町へ来て最初に入った店だ。
食料品や日用品が並んだ棚に、変わったところはなかった。
……いや、「あの時」から何も変わっていなかった。
僕が買った飲み物の棚も、一本分のスペースが空いたままになっていた。
「確かあの時、碓氷は——」
碓氷は、向かいの店から出てきたはずだ。
ひと際古そうな木製の建物、その扉へ手をかける。
鍵はかかっていなかった。
そこは、駄菓子屋のようだった。
細い通路を進んでいくと、代金を入れるための木箱が置いてあった。
特に妙なものはない。
僕はさらに奥、少し上がった座敷の方へ吸い寄せられるように進んだ。
そこはひどく寂れた和室だった。部屋の隅には蜘蛛の巣が張っていたし、障子もところどころ穴が開いていた。
しかしそれよりも注意を引いたのは、窓際に吊るされた、てるてる坊主だった。
それは数にして十数個、全て逆さに吊るされていた。
そしてどれも裾のあたりに名前が書いてあった。
佐竹。藤崎。尾形……。
いくつか、聞き覚えのある名前があった。
碓氷だ。昨日一緒に店を回った時、碓氷は「佐竹さん、腰はもういいの?」とか、「藤崎さんって店空けるのいつだっけ?」とか話しかけていた。
「……寝れないの?水田さん。」
話しかけてきたのは碓氷だった。
「悪い、起こしたみたいで」
「そうじゃないでしょ。」
「碓氷。これが、みんななんだろ」
碓氷は目を閉じ、しばらくの間黙り込んだままだった。
「『何も隠していないから透明人間』じゃないのか?」
「……透明人間ねぇ。……透明人間じゃないよ。私」
碓氷は観念したように、この町の真実を打ち明けた。
祖母が遺した商店街のこと。ここには碓氷以外誰もいないこと。
「それは、『晴れませんように』のお祈りだよ。日が差したら、はっきりしちゃうから。透明人間に影があるのか、無いのか。私、見たときないから」
いつの間にか、雨は止んでいた。
僕はそれを、差し込んだ月の光で、浮かび上がる碓氷の影で知った。
「ずっと、そういうふりをしてきたのか?何年も」
「その通り!せいか~い!…………一番大きな隠し事はコレなんだけど、私、また透明になれると思う?」
「……なりたいのか?」
僕たちは、このやり取りが答えにつながっていないことを知っていた。
知っていたから、誤った答えにたどり着いてしまう前に、眠りにつくことにした。
翌日目が覚めると、碓氷の祈りも虚しく外はすっかり晴れていた。
バスは9時半に出るらしい。
「おはよう、水田さん。もう行くの?」
「うん、さすがに居すぎたからね。踏み荒らすべきじゃなかったところにも、手を付けちゃったし」
「そう、さすがにその自覚はあるんだ。……見回り行くけど、来る?」
誰もいない商店街を見て回った。
飲み物を2本買って、ひとつ碓氷に渡した。
碓氷が何も言わないから、僕だけ「ありがとうございます」なんて店主に礼を言った。
「昨日碓氷と話したこと、夜中ずっと考えてたんだが、やっぱりわからなかった」
「水田さんよりずっと考えてる私がわからないんだから、当たり前でしょ」
「それもそうだ。だけど、もし碓氷が透明でいられなくなったら、透明でないことを受け入れようと思えたら、その時は……」
「ストップ。どうするかはその時の私が決めまーす」
碓氷が今日まで過ごしてこれたのは、こういうしっかりしたところがあるからだと、改めて思った。
「そう言えば、そのジュース貸しね。あと僕、貸し借りあるの嫌だから」
「う~わ、『泊めた』っていう大きな貸しがあるの、忘れてるのかな」
僕は鞄からあるものを取り出し、碓氷に渡した。
「これ、もしよければ吊るしといてくれないかな」
それは、「水田」と書かれたてるてる坊主だった。
せめて碓氷が何かになるまで、いや、何かにならなくても。
僕はその時間を作ろうと思った。
「水田さん。もう出ないと間に合わないですよ」
バス停まではかなり歩く。時計を見ると、本当にギリギリの時間だった。
「じゃあ、またね」
「次来る頃には私、いないかもしれないですけどね」
「別に好きにしていいんだよ」と言って別れた後バス停へ急ぎ、数分遅れで到着したバスになんとか間に合った。
その時にはもう、厚い雲が太陽を覆い隠していた。