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DAY61)ハエ蜂から考える保育や善悪

今日、僕の前に、お尻が黄色いハエが現れた。大きさは通常にハエの3倍くらいあり、お尻も黄色いので「おや、ハチかな?」と思ったが、顔はハエに似ている。初めてみた。「ん、アブか?」などとも思いながら、彼女を見つめた。彼は飛ばず、僕の目の前をゆっくり歩いていた。秒速は1cmくらいだろうか。彼女は飛ばずに歩いていた。どうやら羽が半分なくなっている。飛べないのだろう。弱っているのかもしれない。

そんなことを考えていると、小さなアリがやってきた。ハエとの距離は50cmくらい。明らかにハエは弱っているようで、トボトボ歩いている。アリは右往左往しながら少しずつハエに近づいてきている。「おい、アリに見つかったらヤバいんじゃないか?」と心の中でつぶやきながら、ハエとアリの様子を伺った。どんどん近づく距離。「どうなるんだ、これから」と勝手に実況しながら見ていると、アリがいよいよハエに気づくだろう距離に近づいた。「いよいよ、ダメか!」と思っていると、アリはなんてことなくスーーって目の前を通って何処かに行ってしまった。「なんだそりゃーー」と1人でズッコけた気持ちになりながらも、アリに生態を全然理解していない自分に少々笑ってしまった。

しっかし、相変わらずハエはとぼとぼ歩いている。時々、止まるくらい元気がないようだ。ここで思った。「彼女はこの後、どうなるんだろう」と。このまま、僕の目の前で倒れるのか。それとも何処かに隠れるのか。隠れるっていったて、飛ばない限り、土場は30mくらい先だ。そこまで持つのか。もしくは、誰かに踏まれてしまうかもしれないし、鳥に食べられるかも。どうなるんだ。

こういうときは、僕が助けるべきだろうか


野生児「アマラとカマラ」をご存知だろうか。
オオカミに育てられた子と言ったら聞いたことあるだろうか。

アマラとカマラは現在の西ベンガル州ミドナプール(Midnapore)付近で発見され、孤児院を運営するキリスト教伝道師ジョセフ・シング(Joseph Amrito Lal Singh)によって保護、養育された。シングは、2人が幼少時に親に捨てられた後オオカミに育てられた野生児だと主張し、文明から切り離されて育てられた子供の事例として有名な逸話となった。

weblio辞書

いま、授業「人間学総論」では、この「野生児」がテーマである。ここから「人間とは何か」「教育とは何か」を考えている。そこでとても興味深い文献が西平直氏「教育人間学のために」である。

この第1章「教育はカマラを幸せにしたか」では、野生児「アマラとカマラ」の研究と、それから見た社会的影響力までも考察している。特に注目すべきは、これらを批判的に見ている点だ。

・カマラらを、どう語られてきたか
・カマラらは、何を感じていたか
・この話に信憑性はあるのか
・教育は、彼女らを幸せにしたのか

西平直氏「教育人間学のために」

個人的に特に興味深いのは「カマラらは幸せだったのか」という問いだ。考えたことなかった視点であり、かつ見逃してはいけない視点である。ここでの焦点を、簡単にいうと「野生児として暮らしていたカマラらは、人間に捕獲され、人間的な暮らし・教育を受けた」と言うことだが、見方を移すと「野生児として暮らしていたカマラらは、その暮らしを奪われて、捕まえられ、強制的に人間の暮らし・教育を強いられたのではないか」と言うことだ。ある視点では、カマラらを幸せにしようと試みた人間愛を感じる一方で、ある視点ではカマラらが求めてもいないことを強制的していた屈辱的なことかもしれない。

著者自身も、今になっては答えが出せない問いかもしれないと言う。確かに答えは出ないが、問うことの必要性も感じる。答えが出ないからと言って、じゃあ考えないということに繋がるわけでもない。ただ答えのない道を歩むということは相当な想いがないと進めず、根気も必要に思う。これは保育でも同じだ。見る人、視点、状況によって物事の捉え方は違い、どの軸で見るかによっても変わり、答えが出ないこともある。だからと言って、では考えなくて良いという訳でもない。ただ考えれば良いと言うわけでもないというのが難しいとこでもあり、根気が有するところだ。

話を戻そう。このカマラらに関する幸福論的な話は、善と悪の相対的な視点にもなり、その先には「教育とは何か」「人間的に文化とは何か」「人間らしさとは」「人間を人間たらしめることは何か」に繋がる。ぐるぐるしてくる。考えすぎは毒である一方、考える面白さは中毒にもなる。ただ1つ言えることがある。「保育者にとって、子どもと関わる身として、持っておきたい視点である」ということ。僕らが思う保育、僕らが願う想いは、時にして美しく素晴らしいことである一方で、それが悪になり苦しめることにもなるということだ。目の前の子どもをどう見て、どう捉えて、どう関わるか。そしてその関わりがどうだったのか。子どもは幸せになったのか。あぁ、そもそも幸せとは何かも問わなければ。あぁまたぐるぐるしてくる。ぐるぐる、ぐるぐるしながらも、シンピスパイラルしていたら良いな。


あ、そうそう。。その後、ハエがどうなったかを話さなければ。クタクタになったハエ目の前にして僕はまだ迷っていた。カマラらのように、僕が助けることによって救われることもある一方で、僕が捕まえることで彼女から奪うこともあるかもしれない。そんなことを考えていたら動けなくなった。だから、空を仰いで深呼吸をした。そしてまた彼女を見たら明らかにジッとしている。止まり続けている。「おい、大丈夫か。最後の力を振り絞ってしまったのか」と思わず、そばに落ちていた枝を差し出し「ほら、ここに乗ってごらん」と言わんばかりに近づくと、その瞬間、あっと言う間に彼女は飛んでいった。

飛べるんかい!!!笑

こうして僕の数分間は「彼女は飛べた」という結果で幕を下ろしたが、結果的に彼女の「生きる力」を見せてもらったし、それと接する自分の咄嗟の想いが垣間見れた。保育者も、子どもに関わる大人も、この咄嗟の想いが意外と大切で、理論や概念や、実践する力や経験値も重要な一方で、その瞬間的に出る衝動が子どもへのかけがえのないアクションかもしれない。きっとこの衝動はいつも持っておきたいし、忘れちゃいけないものなんだと思う。そこに善悪や良い悪いもあるかもしれないけど、それも気にかけながら、でもときに見逃しながら歩んでいきたいし、こんなことを誰かと話したいなって思った出来事でした。

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