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ディテールの旅人 〜言葉について思うこと〜

 中学生か高校生だった時のことを思い出して(もちろん、”現役”の方は何もしないで良いのだが)次のような国語の問題を考えてほしい。

本文中の棒線部1「太郎にとって、健太は神様だった。」とはどのような意味か。以下のア〜エのうち、最も適切なものを選びなさい。
ア:サッカーがなかなかうまくならない太郎にとって、サッカー部のエースである健太は憧れの存在だったということ。
イ:家が貧しい太郎にとって、いつもお金をくれる健太は命の恩人だったということ。
ウ:健太はクラスメイトからいじめられていた太郎をいつも守ってくれたため、太郎は彼に心から感謝しているということ。
エ:健太は太郎の目の前で天より降臨した、イエス・キリストの生まれ変わりだったということ。

この国語の問題には「本文」が存在しない。四つの選択肢の中から、正答を選ぶことはもちろん不可能だ。しかし、多くの読者は少なくともエは正解ではないだろう、という予想ができたのではないだろうか。

 現代文の読解とは「具体化」の作業だ。家庭教師のアルバイトで生徒に国語の現代文を教えるとき、私は最初に決まってこの話をする。国語の問題文の中で、「神様」は「信仰の対象である人知を超越した存在」という意味では決して用いられていない。文脈や、筆者の意図によって本来の語義とは異なる意味を持たされている“鉤括弧付きの「神様」”を、国語の問題を解く学生は「サッカーが上手い健太」、「お金をくれる健太」、「いじめっ子から守ってくれる健太」という具体的な像に結びつけていかなければならない。その作業が終了したとき、生徒は「どのような意味か」という問題文の問いかけに答えられたことになるのだ(ここで一問、「『その作業』とはどういうことか、説明しなさい。」という練習問題に答えてみよう。「その」という言葉は具体的に何を表しているのかそれだけではわからない抽象的な語[もう少し真面目な解説をすれば、「指示語」]であり、それを具体化すれば良い。解答例は「現代文の問題文に登場する抽象的な語句を、具体的な説明に言い換えるという作業」とでもなるだろうか)。

 『小爆発二件』という随筆で、寺田寅彦は「言葉というものは全く調法なものであるがまた一方から考えると実にたよりないものである」と書いている。彼は軽井沢で浅間山の小噴火に遭遇した際の様子を詳細に記したのちに、しかしその内容が世人の言葉では結局は「降灰」や「爆発」といった単語で表現されてしまう、という事態に目を向ける。寺田がルーペで観察し記録した火山灰の粒の大きさや、詳細な爆発の規模といったディテール(物事の細部)は、現実が言葉の世界に置き換わる中で切り捨てられてしまう。「爆発」という言語化の背後には、爆発の規模のような情報だけでなく、噴石に潰されてしまった登山道に咲く綺麗な花や大きな音に驚き草木に隠れる山の動物たちがいる。寺田はもしかしたらそのようなものを目にしたかもしれないが、随筆の中では言葉にしていない。言葉の語り手は一つ一つの具体を切り捨てながら、抽象の世界へと言葉を編んでゆくのだ。

 物理学者である傍ら文筆活動を行なった人物で、どうやらかなり観察者肌らしい寺田は、それは言葉の「たよりない」一面であると嘆いているようだ。私はそうは思わない。人が言葉を綴るとき、その人物は単にディテールを切り捨てているのではない。語り手の声や文章から、私たちはその人物が何を汲み上げ、何を切り捨てたのか、その想いのようなものを新たに読み取ることができる。たとえば、寺田は軽井沢で遭遇した出来事を、「噴火」ではなく「爆発」という言葉を選んで表現している。彼は浅間山から少し離れた場所にいたので、山から火が噴出するところは見えなかったのだろうか。そして、自分が耳で聞いた爆発音や肌で感じた揺れといったディテールを言語化の中でも切り捨てずに残そうという想いが、「爆発」という言葉を彼に使わせたのだろうか。彼が綴った文章を読むだけでなく、その中の一つ一つの言葉が選ばれていった過程を想像することでも、私たちは故人である寺田の目や耳に近づくことができる。

 「ことば」の抱える抽象性に目を向ければ、その裏に潜む、言葉をつむいだ人間の姿が自然と浮かんでくる。具体から抽象への言語化の営みは、単なる情報量の削減ではなく、その主体がどのような取捨選択を行なったのか、すなわち彼・彼女の「目」と「心」の付け足しなのだ。

 私は、何かを聞き、読むとき、その表現者が見て、感じた具体的な世界から、言葉という抽象的な情報へと加工されていったその流れの中で切り捨てられていったディテールたちに思いを馳せる。それだけでなく、その加工を行った表現者自身がどのような観察や、感覚を大事にする人なのかということにも想いを寄せる。言葉は絶対に、私たちの目や鼻や耳や肌が感じ取っているほどに世界を表し得ない。だからこそ、言葉をつむぎ、言葉を受け取る時、私たちは具体と抽象の間を行き来する旅人になれるのかもしれない。(2021/5/20)


*「寺田寅彦の随筆を読んで、エッセイを書く」という大学の授業課題で提出した文章をもとに作成したもの(教官の許可は得ています)。

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