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092. 休眠宣言へ

いわきで過ごしていた時期、私はアーチャリー正大師に宗教的な指導を期待していたが、やがてつくづくこう思うようになった。

「この人は、普通の女の子なんだなぁ…」

なにを見てそう思ったのかは忘れてしまった。
今後の教団の経済を心配して一生懸命考えた末に、姉妹で描いたイラストを印刷した便箋や封筒を売る「文房具屋さんをやろう!」と言い出したときだったのかもしれない。何人かの女性の師が正大師に不満や恨みを抱いて教団をやめていくのを引き止める力がなかったときかもしれない。
いろいろな姿を見ているうちに、アーチャリー正大師に麻原教祖のような指導力を求める方が間違っていることに気がついた。

私たちは無意識のうちに正大師と教祖を重ねて見ていたが、現実の正大師が教祖のようになれないのは当然のことだ。まして誰も経験したことのない異常な状況で、十三歳の正大師になにができるというのだろうか。こんなに当たり前のことがわからないのは、教祖がもっていた神秘力が血統のように子どもたちに引き継がれていると思うからだろう。

アーチャリー正大師に運転手を頼まれて長男と次男が住む旭村に何度か行くことがあった。当時、長男・次男は教祖とされていたが、まだ幼かったので、なにか意味のある言葉をかけてくれるわけでもなく、いつも遊んでいる姿を見ているだけだった(*)。

その日、私は次男が遊んでいるところに居合わせた。紫色のクルタを着て、キャーキャー笑いながら走り回っている次男を見ているとき、部屋の天井あたりの空間からキラキラと大きな光のかけらがたくさん降ってきた。

「なんだろう…。ああ、これはプラーナだなあ…それにしてもずいぶんと大きいなあ…」

修行者はよく空気中にプラーナと呼ばれる光の粒を見ることがあるが、そのとき私が見たものはひらひらと舞い落ちてくる手のひらほどの大きさの光だった。

また、私が背中の痛みに苦しんでいるとき、なにも知らない長男に痛みのある所をすれ違いざまにたたかれたりもした。

こういうことは、教祖の子どもたちに教祖のような神秘的な力があるから起きることだろうか? 

私は、「教祖や長男・次男は特別な存在だ」と信じる閉じた世界のなかで起きる出来事だと思っている。そういう世界のなかでは、彼らに神秘力があるともいえるし、また彼ら個人に神秘力があるわけではないともいえる。

アーチャリー正大師については、こう考えるようになった。

「アーチャリー正大師は普通の女の子で、かつ正大師。どちらにも偏らずに彼女には両面あると見よう。そうすれば過剰な期待をしないですむから」

私たちはいわきを立ち退くことになった。今後どうしたらいいかあれこれ考えて、私は正大師に頼るのをきっぱりとやめることにした。そして、もう一度修行で自分を立て直すために、長野県木曽福島にあった「蓮華」という修行場でリトリート修行に入った。そこで三か月ほどかけて集中的に教義を学びなおすと、東信徒庁のときに行き来していた長野支部を担当することになった。信徒の少ない田舎の道場で、あまり人と接しなければなんとか精神的な安定を保つことができそうだった。

全国の支部では、事件後大幅に減った信徒数を盛り返そうと、意欲のある信徒を一堂に集めて導きを促進するセミナーを企画していた。導きを得意としていた私はセミナー期間だけは積極的にかかわった。

「日本中から排斥されるこの状況は大いなるカルマ落としだから、それに耐えれば教団は飛躍的に発展するはずだ。今こそ救済を意識して真理を広めよう」

そして、導きセミナーで気持ちが盛り上がったサマナたちが、街頭で「尊師マーチ」を歌って踊るという常識を逸脱したパフォーマンスを繰り広げると、世間から猛烈な非難を受けることになった。

この頃から、私はやっと教団の置かれた状況について冷静に考えられるようになった。よく「ピンチはチャンスだ」と言われる。たとえ一文無しになっても億の借金を抱えようとも、それを跳ね返すほどの努力をすれば逆転できる。それを乗り越えてこそ本当の力がつくということだ。そのような発想から、教団の状況が変わらないのはまだまだ努力が足りないからだと思っていた。

しかし、どうやらこれは努力で挽回するとか、困難を克服するという、ただ闇雲に前進することでは解決できないのではないか? と少し冷静に思えるようになった。そして、「事件って、いったいなんだったんだろう…」という思いも浮かんできた。

長老部は実質崩壊していて、何も決めることができないまま教団運営は混迷していた。重大な事件についての見解を保留して宗教活動を続けても、国民の強い反発を招くだけだった。長野県北御牧村の排斥運動をはじめとして、オウムの施設がある地域では住民の激しい反対運動が起こり、サマナの住民票を受け入れないという自治体も出てきた。私たちは完全に「非国民」になっていた。

これまでずっと社会を無視してきた出家教団も、ついに宗教活動を自粛せざるをえなくなり「休眠宣言」へと追い込まれた。「オウム真理教」の名称は破産管財人により使用禁止が通告され、教団の対外的な宗教活動は全面的に休止した。

こうしてオウム真理教の終わりが決定的になったのは、奇しくも教祖が世界の破滅を予言していた世紀末、ノストラダムスの予言の年一九九九年九月末のことだった。

(*)一九九六年破防法弁明手続きにおいて、教祖は教祖を辞した。代わりに長男・次男が教祖とするようにという指示があった。

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