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Atomic Ageクンダリニーの潮流

オウム世代とは

下のグラフは、オウム真理教による地下鉄サリン事件があった1995年、麻原教祖逮捕から二か月後の7月に、オウム真理教の出家修行者の年齢構成比と男女比を調べたものです。(『ヴァジラヤーナ・サッチャ』№.12/1995.7.25 オウム出版 オウム真理教出家修行者基礎データ1995,7,9現在より)

1995年7月9日当時、26歳だった1968~1969年生まれが102人と最も多く、その前後で一つの山ができていて、このとき24~28歳だった1966~1971年生まれが410人と全体の36.6%を占めています。このように40歳だった麻原教祖のもとに出家した人は、24歳〜28歳の人たちが突出して多かったのです。

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次の表は、オウム事件にかかわった弟子たちの誕生年・入信年・出家年をまとめたものです。13人の死刑囚と6人の無期懲役囚、そこに最高幹部だった村井秀夫さんと上祐史浩さん(現・ひかりの輪代表)を加えています。

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この表から見えてくる特徴は、21人のうち15人が1960年代生まれの男性で、事件当時20代半ば〜30代半ばだったこと。事件にかかわった弟子の多くは1988年以前にオウムに入信した古参信者だということです。つまり「オウム真理教」の前身「オウム神仙の会」からの弟子がほとんどで、麻原教祖のシャクティーパット・イニシエーション(1984~1988)を受けた人たちです。入信年から推測すると、例外は林郁夫さんと土谷正実さんくらいでしょう。

このようにオウムの中心には、1955年生まれのグルである麻原教祖と1960年代に生まれた弟子たちがいました。

1954~1974年の日本は高度経済成長期で、人類の歴史上でも稀に見る経済発展を経験し、世界に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年)と認められるまでになり、やがて膨れ上がった欲望のようなバブル期(1986~1991年)を迎えました。

一方、世界は東西冷戦の核軍拡競争の果てに、全面核戦争が起これば人類が滅亡する危機が現実のものとなっていました。

『核』とクンダリニー

麻原教祖は「クンダリニー」という霊的エネルギーの覚醒による救済を掲げていました。人体に眠っているクンダリニーを覚醒させて、その強烈なエネルギーを使って解脱していくのがクンダリニー・ヨーガです。そして、「クンダリニーを覚醒させ、煩悩を昇華した修行者(成就者)が三万人程度生まれれば核戦争を回避できる」という救済理念のもと、多くの人のクンダリニーを覚醒させるためにシャクティーパット・イニシエーションを行ないました。

オウムのシャクティーパットとクンダリニー覚醒について、永沢哲氏と中沢新一氏はこのように述べています。

「はじめ、渋谷の小さなヨーガ道場だった『オウム神仙の会』が、急速に会員を増やし、『オウム真理教』になっていく過程で、最初に大きな役割をになったのは、 グルのエネルギーを直接弟子に送ることによって、ふつう尾てい骨の根元に眠っているクンダリニー・エネルギーを覚醒させるシャクティ・パットのイニシエーションだった。インドでも、クンダリニーの覚醒は、長い期間にわたるマントラやハタヨ-ガ、呼吸法などのトレーニングによってはじめて可能になるものだとされ、その過程で、パワフルな導師から、直接的に霊的なエネルギーが注ぎこまれるイニシエーションが、迅速な覚醒のためには必要だとされる。麻原彰晃は、このシャクティ・パットのイニシエーションを公開し、さらに、それを『オウム真理教』の修行体系の大きな優位性として、宣伝したのである。」
「ただ、シャクティ・パットは、きわめて直接的なもので、導師にとっても、弟子にとっても、影響が大きいので、あまり頻繁にはおこなわれないのがふつうだ。」

「イマーゴ」1995年8月臨時増刊号 総特集『オウム真理教の深層』永沢哲「わが隣人麻原彰晃」

「僕のチベットの先生の場合、密教を教えているのは僕を含めて三人ぐらいです。弟子が何千人という有名な先生もいるけど、それだって密教を教えている人間は、まあ数えるくらいでしょう。ところが尊師はいっぱい与えたんです。あれは無理がある。四千人にシャクティーパットなんかしているんだもの。まあ、あまり聞いたことのない話ですね。」

同上『オウム真理教の深層』中沢新一「男性同盟のいきつくところ」

教団の資料によれば、麻原教祖はのべ8000人にシャクティーパットをおこなったとされています。永沢、中沢両氏が言っているように、これほど多くの人に直接的なエンパワーメントをしたグルは過去に例がないかもしれません。

麻原教祖はクンダリニーの覚醒のことを「原爆覚醒」と著書で表現しています(1)。また、インドで行われた核実験はクンダリニーの別名である「シャクティ」を使って、「シャクティ計画」と命名されています(2)。どちらもクンダリニーという霊的エネルギーを原子爆弾、すなわち核エネルギーと似たものであると見なしているのです。麻原彰晃を「核時代のグル」という人もいます(3)。

核時代のグル

同じ時代のグルとして、1980年代前半にアメリカで活動したバグワン・シュリ・ラジニーシがいました。麻原彰晃、ラジニーシ、この二人のグルをめぐって起きている現象にはどこか似たところがあります。どちらも霊的な覚醒を強く求め、非常にパワーがあり、社会と鋭く対立し、マスメディアによってセンセーショナルに取り上げられ、カルト集団と呼ばれて社会問題となり、そして排斥されました。

ラジニーシの教団はアメリカ社会と妥協することなく闘い、幹部たちは逮捕され、ラジニーシも逮捕されてアメリカから追放されて、世界各国から入国を拒否されてしまいます。オウムも社会と一切妥協することはなく、結局、幹部がサリン事件を起こし、多くの人を殺害し、麻原教祖は極悪人と蔑まれ、最後は教祖と弟子たち13人全員が処刑されました。結末部分はずいぶん違いますが、世界に強いインパクトを与えたという全体的な雰囲気はよく似ています。

「核時代のグル」という観点から、ラジニーシの経歴をwikipediaで大まかに見ると、注目すべき点がいくつかあります。

「1960年代後半にインドで始まり、先進資本主義国を中心に広まった新宗教のラジニーシ・ムーブメントの創始者。」
「1970年代より思想家からグルへと移行し、弟子を受け入れるようになった。1972年、バグワン・シュリ・ラジニーシと改名」
「死の一年ほど前(1989年)に自らの尊称を和尚/オショー(Osho)に変えた」

哲学教授だったモーハン・チャンドラ・ジャインが、バグワン・シュリ・ラジニーシと名乗ってグルとなったのは1972年、ちょうどインドが核爆弾を保有する作戦をスタートした年です。そのコードネームは、なんと「微笑むブッダ(Smiling Buddha)」でした。1974年には「シャクティ計画」と名づけた核実験が成功して、インドは世界で六番目の核保有国になります。そして、ラジニーシがインドを離れてアメリカに拠点を移し活動していたのは、スリーマイル原発事故の二年後の1981年から1985年まで。麻原さんがインドで「最終解脱」をしたと宣言してオウムを広げていくのは1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故のすぐ後のことでした。

核エネルギーに関する重大な出来事を視野に入れると、インドの核実験や原子力発電所の重大事故と、インドをルーツとするクンダリニー覚醒のムーブメントが同じ時期に起こっていたことがわかります。

また、ラジニーシは亡くなる一年程前の1989年、尊称を「和尚」に変更しています。なぜその名称にしたのか詳細はわかりませんが、長年使って世界中に知られたブランド名を、まったく別のものに変えることは普通あり得ないことです。「和尚/Osho」というのですから最晩年のラジニーシは「日本」を意識していたのでしょう。

そしてその1989年に東西冷戦が終わり、日本では昭和の終わりを迎えて、オウム真理教は急速に教勢を拡大していきます。
1992年、オウムはソビエト連邦崩壊後のロシアに進出し、三万人とも四万人ともいわれる信者を獲得しました。
1990年にラジニーシが亡くなったとき、麻原教祖は説法でその死に触れていましたし、後に「ラジニーシは日本に転生した」という意味のことを言っていましたから、麻原教祖はラジニーシという存在を意識していたのでしょう。

ラジニーシと麻原教祖は表現方法は違いましたが、どちらも真理の探究者であり、弟子を覚醒させ、解脱させようとし、そのために多くのエンパワーメントを行ない、真理を説いて広めようとしました。

こうしてインドからはじまったクンダリニー覚醒のムーブメントは、ラジニーシが布教したアメリカ、麻原教祖が布教した日本、そしてロシアへと、東西冷戦という米ソ対立の深い裂け目を統合するように「インド→アメリカ→日本→ロシア」へと、広まっていったと見ることもできます。クンダリニーというエネルギーは「対立するもの、分断するものを結びつける」働きをしますから、オウムが海外で唯一成功したのがロシアだったことも、この流れのなかでなら納得できるのです。

核エネルギー、オウム、ラジニーシについての出来事を対照する年表を示しておきます。

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ミクロコスモスとマクロコスモス

「三万人の成就者が生まれれば核戦争は回避できる」
オウムが掲げるこの目標を聞いたとき、
「成就者がたくさん出るということは、解脱して、悟りをひらいた知恵ある修行者たちがリーダーになって世界を変えていくんだろう」
漠然とそんなイメージだけがありました。

オウムでは多くの人が「クンダリニー覚醒」や「クンダリニー・ヨーガ成就」を体験しました。2006年にアレフを脱会した私は、自分自身の体験を振り返り、書き綴り、オウムで体験したクンダリニーについて考えてきました。そして、オウム真理教という現象は、そのとき世界で同時に起こっていたことと無関係ではないのかもしれない、と調べてみました。

クンダリニー覚醒のムーブメントと核の時代は、共時的な現象ではないのかと思ったのです。このことは人間というミクロコスモス(小宇宙)と、マクロコスモス(大宇宙)は照応しているという古代のヘルメス思想を想い起こさせます。そうであるならば、人間がクンダリニーを経験するように、地球もまたクンダリニーを経験するのかもしれない…そんなことを思って、誇大妄想的なイリュージョンとして描いてみました。


今回の記事を書くために、麻原教祖の説法データを「バグワン」で検索してみると、思っていた以上に引っかかってきました。そのなかに中沢新一氏との雑誌の対談のデータがありました。中沢氏に問われた麻原教祖がラジニーシについて語っているもので、もしかすると、そこで言われていたことは麻原教祖自身にも起こったことなのではないかと興味深く思いましたので、参考資料(6)として最後にあげておきます。

(1)麻原彰晃著『原爆覚醒』(オウム出版)は、シャクティーパットによる信者のクンダリニー覚醒体験を中心に書かれている。
(2)1972年インド最初の核実験計画は「微笑むブッダ(Smiling Buddha)」というコードネームだった。1998年に行われた五回にわたる核実験は「シャクティ作戦」と呼ばれている。
(3)イマーゴ1995年8月臨時増刊号 総特集『オウム真理教の深層』「わが隣人麻原彰晃」永沢哲。
(4)1945年初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ合衆国・ソ連を中心に約2000回もの核実験が行われた。
(5)1989年世界は大きく転換した。オウムもこの年から転換していく。選挙の敗退がオウムの武装化の原因ともいわれるが、時代そのものが転換している動きと同期しているように思われる。

(6)(麻原)わたしはキリスト教にしろ、あるいはユダヤ教にしろ、あるいはイスラム教にしろ、すべて評価しています。幸福の科学についても同じです。評価しているとはどういうことかと、まず、なんでもいいから物質から精神に飛び込んだことは、素晴らしいという意味において評価していると。ただそれが、世界的にその教えが広まらない理由は、セクトがあるからだと言っています。他の教義に対して研究がなされてないがゆえに、他の教えが、どの部分に属するのかということがはっきり示されていないと。サキャ神賢(ブッダ)も実際、『神聖網経』の中で、すべての教えを分析していらっしゃいまして、この教えはここに属する。この教えはここに属する。それがスパッと当てはまるわけですね。ですから、これから世界を救済するためには、やはり、すべてをスパッと、どの教義についても当てはまるというか、理解できるというか、というような概念形成が必要であると。しかもその概念形成は、過去の偉大な聖者たちがいらっしゃるわけですけど、その教えと寸分たがわない状態が展開されなければならないと。
中沢)うん。レベルがね。
麻原)はい。
中沢)あの、そういう考えを、今から数十年前、二十年ぐらい前に持った人にバグワン・シュリ・ラジニーシっていう人物がいましたね。初期の麻原さんがお書きになったものを見ても、バグワンの影響っていうのは、たぶんに僕は感じたんですけども。
麻原)わたしは一冊の半分しか読んでないんです。
中沢)そうですか。ずいぶん近いことをね、考えていると思いましたけども。彼もそういうこう、システムとして、大きなものを考えていくというタイプじゃなくて、非常にこう、何て言うか、ジャズの演奏家のように、即興のようにしてしゃべってはいますけれども、例えばイスラム教や、仏教や、キリスト教やあらゆる宗教の要素を自分の中に飲み込んで、そして、彼が体験しているその神的なものを通して、すべてを飲み込んだような新しい言葉を彼は吐こうとしてたと僕は思っています。
ですから、この十数年の中、世界中で出現した宗教家の中でも、バグワンというのは非常に僕はユニークな人物だったと思っています。麻原さんは、僕がその、バグワンに対する評価のような感じで、世界でこの十数年間に現われたいろいろな聖者や、宗教的な人間の中で、どういう人物を評価されていますか。
麻原)わたしはやはりカール・リンポチェですね。
中沢)ああ。
麻原)あの方以上の方は、たくさんの聖者と呼ばれる方と会いましたけれどもいませんでした。というのは、カール・リンポチェにはやはり、ダルマカーヤ・サンボーガカーヤ・ニルマーナカーヤの三身を持っていらっしゃいましたし、しかも、とにかく衆生を利することだけを考えていらっしゃった方ですから。あれだけすべての魂の幸福を追求なさった方はいらっしゃらないんじゃないかと思います。確かに、バグワン・シュリ・ラジニーシは素晴らしいと思うんですけど、わたしは、イニシエーションのやりすぎで…
中沢)あっはっは。
麻原)データが入れ替わっておかしくなったんじゃないかと思っているんですね。
中沢)ああ。ええ。
麻原)これは、彼も行なっていたのも、わたしが行なっていたのも、シャクティーパットとかなわけですけど、明らかにコーザルのデータが瞬間的に変わっていくわけです。それは、例えば、弟子たちをその前に成長させた上で自分が存在するならば、その自分のおかしさみたいなものが、チェック機能として弟子たちが働いてくれるんですけども、しかしそうでない場合、自分がどういうふうに魔境に陥っているのか、わからないというか。だから前半のバグワンの教えと、おそらく後半のバグワンの教えとはかなりズレがあったと。
中沢)あのセックスを中心にするような教えになってからですね。
麻原)そうですね。特に、まあそれは当たり前だと思うわけです。というのは、アメリカへ行ってシャクティーパットをやると、
中沢)パーって広がりますよね。
麻原)ええ。しかもその、例えば西洋人の、特にアメリカ人のデータの中にはセックスのデータが多いでしょうから、それがワッと自分の中に組み込まれると。そうすると、もともとインド出身ですから、そういうものに対しては、うぶであると。よってその情報に巻き込まれてしまうというのが彼の失敗した原因じゃないか、救済に失敗した原因じゃないかと思うわけですね。
中沢)的確、的確。
麻原)で、そういう点からいくと、そういう状況であろうとも全く平然と救済を続けられたカール・リンポチェ、あるいはこれは、少し政治的なものも絡んでくるかもしれませんけど、やはりダライ・ラマ法王ですね。彼は、コツコツと何ていうのかな、チベット人のために、修行できるのにそれをやらないで、じっと、
中沢)ま、耐えていますよね、彼はね。
(『BRUTUS』1991年12月15日号対談の録音より)


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