オウムを題材にした小説
村上春樹『1Q84』(2009年)
高村薫『太陽を曳く馬』(2009年)
田口ランディ『逆さに吊るされた男』(2017年)
修行者は小説を読みません。読めない精神構造になっちゃっているんですよね。なぜなら、修行の目的は物事をありのままに見ること。言い方をかえれば、物語(ファンタジー)の向こう側を目指しているので、逆に物語に入っていかなければならない小説を読むなんて、とても大変でできないし、もう一つ、宗教という壮大な物語を生きているとき、フツーの小説って読めないものですよ。
ちょっと矛盾することを言っているようですが、オウムは修行者の集団であると同時に宗教でもあって、物語の向こう側を目指しながら、救済という物語(宗教)を生きてもいました。
かくいう私もオウムをテーマにした小説以外、まず小説は読みません。10年ほど前に話題になった村上春樹氏のベストセラー『1Q84』を読むのもかなり苦労しました。最初の1ページ目で何度も挫折して、しかたがないので短編やエッセイで村上春樹ワールドに慣れていって、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』という長編小説を読破してから、やっと『1Q84』を読むことができたのですが、数年かけて苦労して、最後のページをめくったとき心の中で叫びました。
「これって、いったいどこがオウムをテーマにした小説なのよ!?」
高村薫氏の長編小説『太陽を曳く馬』は、私には『1Q84』より読みやすく、オウム事件をあつかった小説として興味深く読みました。
『太陽を曳く馬』は上・下二巻に分かれていて、上巻を読んだとき、オウムのことは出てこないけれど、作者はオウムという現象そのものをどうやらつかまえているようだ…ぼんやりとそう感じました。
一方、下巻はオウムが話題の中心になっているにもかかわらず、「これはオウムとは関係ないよね」と思いました。登場人物が現代美術についてえんえんと論じている上巻と、仏教とオウムの教義について、これまたえんえんと論議している下巻を比べて、なぜ上巻の方がオウムをとらえていると感じるのか…。自分でもよくわからなかったので、上巻に出てくる現代美術の巨匠マーク・ロスコの絵(本のカバーにも使われている)を観るために、千葉県にある美術館に行ってみました。
ロスコの絵だけが展示された「ロスコ・ルーム」で小一時間ほどすわって、深い血の色ような、でも不思議なあたたかみのあるロスコの赤色につつまれていると、なぜか修行で経験する意識、瞑想のような意識状態に入ってしまいました。
帰り道、「なぜ、作者はあの小説のタイトルを『太陽を曳く馬』としたんだろう?…」と考えました。“太陽を曳く馬”というのは神話的モチーフです。自らを「神話の創造者」と考えていたマーク・ロスコの抽象画の世界と、オウム事件には親和性があるように私には感じられるのですが、小説『太陽を曳く馬』からその気配は感じても、それを描ききっているようには残念ながら思えませんでした。
田口ランディ氏の小説『逆さに吊るされた男』は、オウムの宗教世界にかなり踏み込んで描いています。(私は富士・上九の取材に同行したので、ちょっと作品に肩入れしすぎているかもしれませんが)。オウムについて書かれた本――小説でも研究書でも、私がそこに求めていることはただ一点しかありません。作者が「現実のオウム」と正面から対峙しているかどうかということです。
田口ランディ氏が対峙したのは、地下鉄サリン事件の実行犯のなかで最も多くの犠牲者を出した確定死刑囚のY。事件の核心に迫ろうとする主人公(作家)とYとの度重なるやり取り(手紙、面会)によって、裁判記録ではわからなかった実行前後のYの心理的状況が明らかになっていきます。そして、主人公がYとオウム真理教の深層に意識を向ければ向けるほど、主人公の表層意識はボロボロと剥がれ落ち、夢とも現実とも区別のつかない内的世界へどんどん迷い込んでいきます。
主人公が元オウム信者の木田智子と富士に行って経験する、現実世界に無意識が侵入してくるような、この世とあの世、夢と現実の中間地点――それは末期のオウムが陥っていた混沌とした無意識的(妄想的)状況に通じるものだと思いました。ラストの主人公の長い独白を読んで、作者にとってこの作品を生み出すことは、自我(エゴ)を剥ぎとられ、丸裸にされ、一度死んで、生まれ変わるようなものだったのかもしれない。創作というのは本来そういうものなんだろうし、それはオウムが追求していた修行ということに少し似ているのかもしれないと思いました。(村上春樹氏も創作活動と修行ということが似ていることをどこかで書いていましたね)
修行によって経験する無意識(潜在意識)というものが体験的にわからないと、オウムも、オウムが起こした事件も、描くのはむつかしいと私は思います。田口ランディ氏はたしかにそれを体験的に知っていて、オウム事件を覆っているある種の空気感、肌触り、もっというならオウムのエネルギーの一部を感じとって、それを作品に封じ込めることに成功しているように思いました。
※『1Q84』と『太陽を曳く馬』は数年前に読んだ印象で書いています。今読み直したら違う感想になるのかもしれません。