2019年7月/一周忌に
13人の死刑執行から一年がたちました。
この一年間、オウム関連の本が何冊か出版されましたね。「大量処刑という衝撃的な出来事の余震のようなものかしら…」「話題が旬のとき本出して売ろうとしてるだけ」などと思いつつ、書店に置いてあれば手に取ってはみたけれど。
13人が逝ってしまってからは、第三者的立場の人が書いたものには、ますます興味がなくなりました。あまりにもオウムという宗教世界を理解しないまま、事実関係さえ押さえていないから、全体の信ぴょう性もあやしくて、なんだかフィクションを、それもあまりできの良くない小説を読んでいるような気分になります。
遺骨をどうするかという報道も聞こえてきます。
13人は、自らの死をもって罪を償ったんだから、遺骨のことは静観していればいいのにと思います。
つまり、ほっとけばいいのに…。
「遺骨は神格化に利用される」などと言う人がいて、失笑してしまいます。
遺骨があろうとなかろうと、麻原教祖を神格化したい人たちはもうとっくの昔にしていますから。神格化する必要のない人たち――私もそうですけど、「オウムって、いつから遺骨を拝む宗教になっちゃったの?」と、首をかしげるばかりです。
最近、手に取った本には、オウムの死刑囚や無期懲役囚たちと接した著者が、オウムの人は「良い人」「純粋な人」「真面目な人」「普通の人」というようなことを書いていました。よく聞く話ですが、特に、凶悪であるはずの実行犯の人たちと会って話すと、そんな印象を受けるみたいです。
「あったりまえ、でしょう」と思います。
自分の人生を――立派な経歴も、職業も、財産も、家族も、食欲も、性欲も、あらゆる楽しみも、全部、麻原教祖とオウムにお布施して、「解脱のため」「救済のため」に、24時間365日無給で働くことさえ厭わなかった人たちが、邪悪であるわけがない!
(いやいや、オウムにだって邪悪な人はいたでしょうが、そんな人は最後までオウムにいなかったでしょう)
実行犯の人たちは罪を犯したけど、良い人だった――実際に会って、話して、そう理解したのなら、そんな人たちが、かつて心から慕っていた麻原教祖について、一度じっくり考えてみたらいいのに…と、言いたくなります。
「良い人」「純粋な人」「真面目な人」「普通の人」たちが慕っていた麻原彰晃とは…
これはオウムにいた私にも難度の高い問題。「洗脳」とか「マインド・コントロール」というレッテルを貼って「思考停止」せずに格闘すれば、なにかしら新たな視界が開ける「問い」だと思うんですけど…やっぱり、そこまでは踏み込めないみたいですね。
あるオウムについての本のなかに、こんな意味のことが書かれていました。(手元に資料がないので記憶で書きますが)
宗教学の研究者が麻原教祖の説法テープを分析するために、数人の学生に説法テープを聴く作業を分担させていたところ、テープを聴いていた一人の学生が言ったそうです。
「麻原って、もしかして、良い人なの…?」
この学生さん、良い宗教学者になるかもね。
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