この世の外の人/outlaw
一人だけ帰らない
13人全員の死刑が執行されて、弟子だった12人は遺体か遺骨になって拘置所から解放され、それぞれが希望したそれぞれの場所へと帰っていった。
けれど、麻原さんだけが骨になった今も拘置所にいる。帰りを待っていたご家族は納得できないだろうな……と気の毒に思いつつも、麻原さんの人生を振り返ると「やっぱり麻原さんという人は、この世の、この社会の外の人だったのかな。現世に帰ってくることはないのかもしれないな」とつくづく思う。
六歳のとき
人はこの世に生まれ落ちると、誰もが家庭と学校の両方で社会の秩序を学び、徐々にこの社会のシステムのなかに組み込まれ順応していくものだ。
ところが麻原さんは、幼い頃からそういうシステムから外れて育った。
まず、普通の小学校に行っていない。一度は生家のすぐ隣にある市立金剛小学校に入学したが、三か月後には親元を離れて熊本市内の盲学校へ転入した。生まれつき左目の視力がなく、右目の視力は1.0。七人兄弟のうち長兄は全盲、すぐ下の弟にも視覚障害があったという。
麻原さんが盲学校へ行くことになったのは、「子沢山で口減らしのためだった」「すでに盲学校に行っていた十一歳年上の全盲の長兄の意向だった」などといわれることがある。先天性緑内障で将来失明する可能性があったから、長兄が盲学校で技術を身につけることを勧めて、親が同意して転校したことは確かだろう。子どもだった麻原さんが泣いて嫌がっても、当時は子どもの意思が尊重されることはなく、六歳のときから親と一緒に生活することも、普通の学校生活を送ることもない特異な人生を歩むことになった。
「さみしいよう」
熊本県立盲学校の寄宿舎には長兄もいたから、麻原さんはひとりぼっちというわけではなかった。それでも小学校にあがったばかりで、いきなり親元から離されて生活することがつらくないはずはない。一緒に生活している子どもたちは全盲、当時は水俣病の子どもも相当数いたというから、重複障害を持つ子どもたちもいる環境で、片目は見えて健康体だった麻原さんはどんな気持ちでいたのだろうか。後に、弟子たちに向けた説法のなかで「そのころ私は親元を離れて暮らしていたわけだが、さみしいよう、さみしいよう、と泣いていた」と、さらっとした口調で語ったことがある。それ以外にも「私も何度か自殺を試みたことがある。しかし、死ねなかったけどね」と語っている。
魂の救済
麻原さんの幼少期から成人するまでを知っている長兄は、麻原さんについてこう言っている。
これは『黄泉の犬』のなかで、麻原さんの長兄が藤原新也氏に語ったとされることだ。これ以外、同書に具体的な長兄の言葉はない。
宗教の道に入った動機については、麻原さんの著書にもほぼ同じことが書かれている。「教祖になってほしい」と長兄に言ったとすると、麻原さんは最初は教祖になるつもりはなかったのだろうか。私が知っている麻原さんは、教祖であるより修行者でありたいと考える人だったから、これはありうる話かもしれない。
早川さんがオウムに入ってきて麻原さんが変わったとするのは、身内を庇いたい親族の思い込みである可能性が高いと思う。長兄が知る麻原さんは、年上の人間の言うことを聞く素直な弟だったのだろう。長兄と麻原さんの関係がそうだったから、古い弟子のなかでただ一人、麻原さんより六歳年長の早川さんが弟に影響を与えたと考えたのではないだろうか。
人格の変容
妻・知子さんは、結婚した頃の麻原さんについて「人のよいバカ」と評したと、三女・松本麗華さんの著書『止まった時計』に書かれている。
ここを読んで思わず笑ってしまった。
「知子さんらしい辛辣で本質を突いた表現だなぁ」
松本知子さんは私がオウムの編集部にいたときの上司だった。
麻原さんはオウム真理教の教祖になった。そして、この社会の価値観と真っ向から対立する教え――欲望を追い求めることは苦しみを生むこと、欲望の滅尽を目指して修行すること、そして解脱し、真理を悟るための方法を説き続けた。わずか七年のオウム真理教の活動のあいだ、麻原教祖の宗教姿勢は一貫して「煩悩破壊」と「現世否定」だったのだから、精神が崩壊し、死んで骨になっても「現世」に帰ってこないのは、麻原さんらしいことのように思えるのだった。
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