欲望と修行
もうずいぶん前にバッテリーがダメになって、引き出しに入れたままになっていたiPod nanoを取り出した。アップルも製造販売を終了していることだし、「捨てなきゃな」と思いつつダメ元で充電してみると意外なことに復活した。
耳にしていたイヤフォンから麻原教祖の声が聞こえてきた。
「欲如意足」(よくにょいそく)という長い決意の詞章だった。
「うわぁ、なっつかしいー」
この「欲如意足」の詞章には「修行するぞ、修行するぞ」と繰り返すフレーズがあって、テレビではオウムの洗脳テープという取り上げ方をして、「修行するぞ」の部分だけを流していた。
修行が目指すのは欲望を滅尽した解脱の境地だ。そして、そのためには「解脱したい」という強い欲求が必要になる。「欲を滅するために修行するんじゃないのか」と、突っ込みが入るかもしれないが、川を渡るために舟が必要なように、解脱するためには「解脱したい」という欲望が必要になる。そして、彼岸に到達したとき舟が置き去りにされるように、解脱したとき解脱したいという欲は消えてしまう。
出家修行者だった頃、私はこの「修行するぞ」という決意が好きではなかった。たぶん、あまりに単純で深みがないように感じていたんじゃないかと思う。決意が複雑で深淵な内容だったなら、考え込んでしまって決意にならないと今は冷静に考えられるが、当時は、あんまり修行したくなかった私が「修行するぞ」という決意を口にしたくないだけ、という明らかな真実を認めることもできなかった。
「ほんとに、なつかしいな」
そう思って、出家者が修行に対する欲求を持ち続けられるようにと、麻原教祖が作ったこの決意の詞章を最後まで聴いた。
麻原教祖の声はエネルギッシュだった。「やるぞ」「負けないぞ」という意欲を喚起するために作られた詞章にはパワーがあった。そういえば、決意のテープをこん睡状態になった病人に聞かせたらかなり延命したという話があったくらいだ。
テープの導入部で麻原教祖は「きみたちの日々の修行を見ていて、私は欲如意足が足りないと思います」と語りかけ、この詞章をとなえることの意義を説明するところからはじめている。それを聴きながら、今の私はつくづくと「そうなんだよなあ」と思うことができる。
人は放っておいたら修行なんてしないものだ(もとい私は)。
楽を求め、快を喜び、自己(エゴ)を肯定し続けていく。そうすることがあたりまえ、それが「幸福」だと錯覚する世界にいるのだから。そのなかで、解脱を求め、修行を続けていくためには、常日頃から「修行するぞ」「修行するんだ」「なにがあっても私は修行するんだ」「解脱するんだ」という、修行に対する欲求を持続させなければならない。そうしなければ、日常のなかで時間(とき)はあっという間に過ぎ去ってしまう。
麻原教祖の声を聴きながら、教祖はいつもどうやって弟子たちに修行させようかと考えていたな、この決意のテープもそのひとつだったなと、しみじみと思った。
「欲如意足」のテープを聴いたからだろうか、ヨーガのアーサナをやってみた。背骨をねじるポーズはタオルの補助が必要だし、前屈のポーズはお腹の肉が邪魔をする。人間ほったらかしておいたらこうなる、という見本のようなていたらく…。
そう、人は放っておいたら修行はしないものなのです(もとい私は)。
※ネットにも「欲如意足」ありますが、音源がひどいですね。
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