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085. 城

社会の風当たりは厳しいままで、教団の先行きもわからなかったが、私が担当していた「識華」はサマナの人数も増えてそれなりに落ち着いてきた。
渋谷と高円寺のサティアンショップには、マスコミ関係者や「オウマー」と呼ばれる教団に好奇心のある人たちがやって来て、書籍や音楽テープや「上祐グッズ」を買っていった。マイトレーヤ正大師の緑色のクルタ(宗教服)が法外な値段で売れたこともあった。しかし、そういう「オウマー」の人が、修行したり法則を学んだりする信徒になることはそう多くはなかった。

この頃、私はニューナルコのあとに経験した、自分のどこかが瓦解して世界が浸食してくるような危うい感覚を再びおぼえるようになった。なんの理由もないのに突然涙があふれ出すような精神不安に襲われて、心が崩れてしまうのではないかと思った。

あるときユニットバスに入っていたら、いつの間にか風呂場全体が海のなかにいるイメージに包まれていた。「なんだろうこれは…」と思いながら、私は溺れまいと浴槽のなかで膝を抱えてぎゅっと目をつむった。内側でなにかが起こっているようだった。大きなエネルギーが押し寄せて意識が呑み込まれるのではないか、このまま気が狂ってしまうのではないか、という不安にさいなまれるようになった。そんな精神状態でもなんとか部署をまとめ、ワークをこなしていたが、やがて師部屋に一人こもることが多くなった。

そして、普段ほとんど麻原教祖が夢に出てくることはないのだが、印象的な教祖の夢を見た。

――小山のように大きな教祖が座法を組んですわっていた。
満面の笑みを浮かべて、明るくくったくのないいつもの深みのある声で言った。
「どうだデュパ、楽しいだろう」
あまりにも大きい教祖を見上げて、私はびっくりしていた。
「は、はい」と答えた。
教祖はマンガのようにばかでかく、楽しそうに笑っている表情と姿は実にリアルだった。――

夢のなかで、あんなにもリアルな教祖が明るく私の名前を呼んだのだから、今の私に問題などあるはずはない。私はそう思って安心しようとした。

ずっと後になって、夢やヴィジョンは、それを見た者の心を正確に映し出したものだということを学んだ。巨人のような教祖を夢に見たとき、私のなにがか大きく膨らみすぎていたのだろう。巨大化した教祖は、部署の上に立って無意識のうちにエゴを肥大させていた私の心を投影した、自分自身の姿だったのだと思う。無知な私は、夢のなかの教祖が今の自分を認めているという都合のよい解釈をした。

折にふれて謙虚に自分を見つめて反省や懺悔をしなければ、破滅に向かって進んでいくしか道はない。あるとき、だれかが四階建ての「識華」のビルを「デュパ城」と呼んだ。これを耳にしたとき、自分のおかしさに気づくべきだった。ただ、自分がおかしいことを認めるのは難しいものだ。そして、「なにか変だ…」と思ったときにはたいてい手遅れでコントロールできなくなっている。

深夜のファミレスで、三度狂ったような女性を見たとき、私はそれが自分自身の心のあらわれだと気づくべきだった。

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