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History of Lowden ローデンの歴史

北アイルランドのギターメーカーであるLowden。オフィシャルページに掲載されているものをDeepLで翻訳、手直ししたものです。自分が読みたくてそうしたのですが、もったいないのでこちらに載せます。ギター制作を始めた頃の話、エス・ヤイリでのOEM生産、会社の精算と再建などについて詳しく書かれています。

「ローデンの歴史」

1980年代の後半、ジョージ・ローデンはスイスにあるローデンの主要ディーラーであるジュネーブのサルベット・ムジークから招待を受けた。共同経営者のイヴ・イメールは、ジョージ・ローデンが来てくれたことを喜んだ。なぜならローデンの顧客の中にはジョージ・ローデンは実在せず、マーケティング担当者の想像の産物に過ぎないと思っているものがいたからだ。ジョージ・ローデンはこの時思い知る。「情報の空白というのは必ず埋められてしまうものだ。時に善意に、時に奇妙に。」というわけで、ジョージ・ローデンと彼のギターの物語は以下の通りである。

1961

この年の夏、10歳だったジョージは、そのサウンド、フィーリング、ルックスでプレイヤーを感動させるギターを作るという、後に生涯をかけた追求の第一歩を踏み出す。「友人のアラン・フレンチと私は、ダウン群グルームスポートで船大工をしていた彼の父親の助けを借りて、2本の「ギター」を作った。その「ギター」は、弦が釣り糸、フレットは釘を曲げたもので、サウンドボックスは四角だった!」

1969

18歳になったジョージは、ギター製作の技術を習得するため、さらなる挑戦を続けた。「次の試みとしてエレキ・ギターを作った。なんとかギターっぽくなったけれど、ギリギリセーフな感じだった。エリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスに向けてのアイルランドからの回答になることを夢見たよ。」

1974

「たくさんお祈りをして(得られる限りたくさんの助けが必要だった!)、私はプロとしてギターを作ることに決めた。木材と基本的な木工用具、そしてイギリスのルシアー、ジョン・ベイリーによる素晴らしい小冊子を持って、私は旅に出たのだ。」それから2年間、彼は木工用具の使い方を独学で学び、ほとんど試行錯誤で仕事を覚えていった。ボディシェイプ、内部ブレーシングパターン、サイドプロファイル、構造オプション、ニス塗り技術、さらにアコースティックギターを安定させ呼吸させるためのデザインオプションについて試行し、チャレンジングでエキサイティングな時間を過ごした。「私は大変な苦労をしてすべてを学びました。失敗を回避する方法を教えてくれる人は誰もいませんでした。新しいシェイプ、ブレーシングデザイン、その他多くのアイデアを試し、ギター製作の独学”ハードスクール”から徐々に抜け出していったのです。」

1976

この数年間の実験と、木や音の創造主への祈りによって、ジョージはアコースティック・ギターの音の生成に関わる物理学をますます認識するようになった。その結果、ドルフィン ・ストラット・プロファイルなどの革新的なサウンドボード・ブレーシング・デザイン、ブリッジ・デザイン、サウンド・ボックス内の仕上げ、さらには組み立て方法、異なる木材のブレンドなどが生まれたのだ。1976年にA-frameブレーシングとドルフィン・ヴォイシング・プロファイルを採用した最初のギターが製作され、その後、構造的安定性を高めるための一連の実験が行われ、最終的にA-frameブレーシングとして知られるようになった。「スティーブン・デルフトとクリス・エクレスホールには、様々な道具や木材をどこで調達できるかなど、具体的な情報を教えてもらい感謝している。彼らは、私の”学びながら進む”期間に、とても辛抱強く付き合い、助けてくれたのです!」

1977

この時点で、O-25は他の3つのモデルに先んじて完成していた。どれも同じ形、ブレーシング、シンプルな外観。「私はこれらのギターのブレイシング、クラフトマンシップ、デザイン、そして何より音色に満足していました。友人のアラスター・バークが、当時パリの有名なアコースティックギターショップであったフォーク・カンカンポワに彼のギター(最初の南米産ローズウッドとシダーのO-38)を見せたんです。そうしたら6本のギターの注文がすぐに入り、さらに毎月4本ずつ注文したいという衝撃的な電話がかかってきたのです!!」 売上は爆発的に伸び始め、ジョージは需要の増加に対応するためにビジネスを拡大しようとした。北アイランドのバンガーにあるアイルランド初のスタジオ兼工房では、最初の4人のギター製作者、コリン・ダスティ・ミラー、フランク・カルナハン、サム・アーウィンとマイケル・ヒルが研修生として働いた。この工房では約100本のギターが生産され、青い長方形の小さなラベルで識別することができる。

1980

ジュネーブのサルベット・ムジークのイブ・イマールとレネ・ハグマンは、1978年に彼のギターを見出して以来、常にジョージのことを応援してくれていた。1980年、イヴはジョージの許可を得て、小規模で専門的な会社にライセンス生産を依頼し、ギターをより広く普及させることに成功した。こうして5年間、私のギターは名古屋近郊のエス・ヤイリ工房のひたむきな少人数のルシアーたちによって作られるようになったのです」とジョージは振り返る。「私は定期的に工房を訪れ、設計と品質のチェックを行い、彼らのクラフトマンシップと仕事に対する真剣な姿勢を目にしました。そして彼らの努力と素晴らしいギターに最大の敬意を表したいと思う。私は製作や道具について多くを学び、一方で彼らはオリジナルデザインのギターを作ることができることを喜んでいました。また、私にとっては馴染みのない種類の職人の技術を学びました。それまでは、高い水準の仕事をするには時間がかかるものだと思っていました。しかし練習を重ね、高い集中力を発揮すればスピードアップできることがわかりました。また名古屋の小さな店に連れて行ってもらい、積層鋼板と素晴らしい刃を持った日本の手工具を手に入れましたが、これは私にとって本当に驚きでした。」

1985

80年代の音楽シーンは電子音楽が流行し、世界的にアコースティック楽器の売り上げが激減した。S Yairiの提案により工房を閉鎖、ローデン・ギターの生産を他のブランドも生産している大きな工場に移すことで統合を図ることになった。ジョージはその代わりに、アイルランドに新しい工場を設立することにした。北アイルランド、ダウン郡にあるバンゴーに建物を借り、ささやかな設備を整え、新しい職人がゼロからトレーニングを行った。

1986

ミッキー・ウチダ(現内田ギターの内田光広氏)がアイルランドに到着し、ローデン一家と生活をともにするようになったのは、ジョージが自分のところで働かないかと手紙を出したのがきっかけだった。ミッキーはクラシックギターの製作を学んでいたが、スチール弦ギターの製作に興味を持っていた。ミッキーの職人としての才能を見抜いたジョージは、ミッキーに工場長のポジションを与えた。この時期のローデン・ギターズは楕円形の小さいラベルが貼られ、最初の3年間はそれぞれ約500-600本、その後は年間約1000本が製造されました。

1988

アコースティックギターの需要はまだ少なく、世界的に見ても価格は現在の半分程度だった。11月になると、アイルランドで創業したばかりの会社が資金不足になり、ジョージは事業継続に不安を感じ、会社を閉鎖することを決意した。そのことを知った会社の取引銀行は、ジョージが今後も協力することに同意するなら会社を売却できると考え、管財人になるよう求めた。そして地元の人たちがコンソーシアムをつくり会社を買い取ることにした。彼らは自分たちの会社をThe Lowden Guitar Companyと名付け、ジョージとライセンス契約を結び、ジョージはローデンのデザインと商標の個人的な所有権を保持することになった。彼は品質管理と新しいデザインを提供しながらも、新会社から独立し、生産拠点をダウン州のニュートナーズに移した。当時のモデルラインナップは現在よりもはるかに限られていたが、ヨーロッパとアメリカの一部ではすでに販売店網が確立されていた。

1989

ジョージは家族とともにフランスに移住し、独立したルシアーとして、新しいクラシック・ギターやスチール弦の設計・製作を続けた。

1990

ジョージはアイルランドに戻り、自身のアコースティックギターと個人の顧客のためのクラシック・カスタムギターの製作を続けた。彼は、ウィンストン・チャーチル・トラベリング・フェローシップの授与により、スイスでプロトタイプの製作とテストを行い、クラシックのデザインを発展させた。その際、ローデンの販売店でありコンサートクラシックギタリストでもあった故ベルナー・エルンストの許可を得て、彼の自宅に仮設工房を構えることができた。ジョージは今日も個人的に少数のクラシックギターを製作している。ジョージにウィンストン・チャーチル・トラベリング・フェローシップを紹介し、応募を勧めたBBCベルファーストの故デヴィッド・ハモンドに特別な感謝を捧げる。ジョージはまた、”The Lowden Guitar Co” で新しいスチール弦ギターの設計を続け、トレーニングや品質管理にも協力した。

1991

ミッキー・ウチダが日本に帰国し、ルシアーとして独立。

1996

ジョージは長男ダニエルのクラシックギター製作を指導し、ローデンレンジの新しいモデル、スモールボディ、ジャズ、プレミアレンジ(現在の35シリーズ)の設計を続ける。

1998

ギター製作25周年を記念して、25周年記念リミテッド・エディション・モデルをデザイン。

2000

ローデンギターの限定モデルの需要が高まり、ジョージは”Millennium Twins” をデザインした。このギターは、フィギュアド・ウォルナットとサウンドボードにシンカーレッドウッドを使用したペアのモデルで、2本のギターから選ぶことができた。

2003

Lowden Guitar Coとのライセンス契約を終了し、ニュートナーズ工場でのLowdenギターの生産を2003年12月末に終了した。

2004

この日からLowdenギターはGeorge Lowden Guitars Ltd.という家族経営の会社で、Georgeの直接指導のもと製作されるようになる。アイルランドのダウンパトリックに新しい工房をオープン。かつて "オリンピック・ギター作り "と称されたローデンのギター作りに込められた誠実さと情熱は、今もなおチーム内で脈々と受け継がれている。ローデンの30周年を記念して発売されたピアーウッド・ギターの限定版は、驚異的な人気を博した。新しい工房が立ち上がるにつれ、ローデンのフルレンジが再びラインアップされたが、いくつかのサプライズが用意された。小型の「S」モデルは、より曲線的なボディと短いスケール長で再設計された。ジョージは「F」モデルの設計をもう少し進め、ナイロン弦のジャズ・モデルも再設計し、彼のクラシックなブレーシング・デザインに基づいたものにした。この新しい時代に生産されたギターは、新しい長方形のラベルで示される。

2006

カスタマイズの需要に応え、マスターグレードのトーンウッドのリザーブセレクションから選択できる「50」シリーズのカスタムショップが導入された。ジョージの息子アーロンが学校から工房に直行し、父のもとで修行を始める。

2007

この年、リチャード・トンプソンとアレックス・デ・グラッシーのシグネチャー・モデルが発表された。リチャードとアレックスは、長年にわたってローデンを演奏することを選択し、私たちはそれを認め、彼らの技術に賛辞を送る。

2008

この年は、新しい製品の発表に忙しい年だった。ラッキー・ストライクの名を冠したログから採取された一生に一度の高品質シンカー・レッドウッド・トップを使用した有名な "ラッキー・ストライク "リミテッド・エディションとバリトン・ギター、さらに22モデルの再導入、ジャズシリーズにブラジリアン・ローズウッド/アルパイン・スプルース仕様が追加された。

2009

フィンガースタイル・アーティスト、ピエール・ベンスーザンとローデン・ギターとの長きにわたる関係を象徴するのが、ジョージがデザインしたサウンドボックス・ベベルを搭載したピエール・ベンスーザン・シグネチャー・モデルの導入だ。このベベルは、長時間の練習やサウンドボックスに手を乗せる際に快適さをもたらし、35シリーズと50シリーズの全てのギターにオプションとして追加され、非常に人気の高いものとなっている。

2012

ジョージは、「ファン」スタイルの指板を持つギターを作らないかという質問を何度も受けていた。このコンセプトは中世の時代から存在していたが、一般的には個々のルシアーから依頼を受ける形でしか作られなかった。このアイデアは、可変スケール長を使用することで、低音弦の長さを長く、高音弦の長さを短くし、それぞれの音質を向上させるというものだ。ジョージは「ダリ風」ブリッジを設計し、ローデンのサウンドボード・ブレーシングに干渉することなくファンフレット・オプションを付けることを可能にした。ブリッジに角度をつけるためには、内部の支柱の配置を変更する必要があった。
また、トーマス・リーブの素晴らしいパーカッシブな演奏スタイルがアコースティック・ギター界、特にローデンコミュニティに貢献したことを認め、彼の木製スクラッチプレートのレプリカを同梱したトーマス・リーブ・シグネチャー・モデルを作成した。
世界的に有名なブッシュミルズ・アイリッシュ・ウイスキー工場は、初の「ブッシュミルズ・ライブ」イベントで音楽界に参入し、ローデンに3本の特別なギターを依頼した。バックとサイドはウイスキー樽の横木をそのまま使用し、サウンドボードはシダー製であった。ブッシュミルズは1本をゲイリー・ライトボディ(スノー・パトロール)に、1本をフォイ・ヴァンスに贈呈し、1本は自分たちのために保管した。

2013

ポール・ブレイディとローデンのアイルランドでの素晴らしいつながりを祝して、ポール・ブレイディ・シグネチャー・モデルを贈呈することができた。これは、ポールが最近好んで使っているオプションだ。また、日本のファンの要望から生まれたステージ・エディション32SEは、シャローボディ、ファストネック、インボードピックアップを採用し、初期モデルの改良版として国際的に大成功を収めている。

2014

ギターメーカーとしてのジョージの40周年を記念して、ジョージが "心を込めて "と語る、特別でパーソナルな限定オプション・パッケージが発表された。今年はピエール・ベンスーザンの40周年でもあり、彼のオリジナル・ローデンである「Old Lady」(現在は引退)をセカンド・シグネチャーモデルとして再現し、彼と共に記念すべき年を迎えた。
私たちの良き友人でありサポーターでもある、アイルランドのバンド、スノウ・パトロールのゲイリー・ライトボディは、エド・シーランに贈るためのギターをジョージに製作するよう依頼した。ジョージはエドのプレイスタイルを注意深く観察し、全く新しい、そして史上最小のローデン・ギターをデザインした。エドもそのギターを喜んでくれたので、ローデンのラインナップに加えられた。アイルランドでは、小さいものに愛情を込めて表現する「Wee」という言葉が流行っているため、このギターは「The Wee Lowden」と呼ばれるようになった。

2017

ブッシュミルズは、ブッシュミルズの樽づくりとローデンのギターづくりの技術の継承を評価し、ファーザーズ・アンド・サンズという考えを記念した限定ギターを提案した。Fボディの8本のギターは、エンシェント・ボグ・オークとシンカー・レッドウッドのサウンドボードで作られ、ヒールキャップの下にはクロスしたルシアーとクーパーのツールのカスタムデザインのインレイ、センターバックにはバレルステーブのシェイプにカーブしたインレイが施されているのが特徴だ。

2018

最初の限定版ローデンの成功に続き、ブッシュミルズは銅製の蒸留ポットをテーマとした別のギターを依頼した。今回はアフリカン・ブラックウッドにアルパイン・スプルースのサウンドボードを組み合わせた30本で、ボディサイズは「O」、「F」、「S」が用意された。今回は、ギターバックのトップに実際の蒸留ポットの銅を使った装飾が施され、センターバックにはシェリー樽の木材を使ったサウンドウェーブのインレイが施されている。
また、エド・シーランはゲイリー・ライトボードへの返礼として、ソリッドボディのエレキギターを作ってくれないかとジョージに頼んでいた。ジョージは、毎年恒例のデザイン・リトリートに出かけGL10をデザインした。帰国後チームはさらにデザインを詰め、冬のNAMMショーでこのギターを紹介することができた。

2019

1月に開催された冬のNAMMショーで、ローデンはこれまでで最大の品揃えを展示し、重量を軽減したボディ、Lollar P90ピックアップ、新しい木材オプションなどの特徴を含む新しいエレクトリックレンジに4つの追加を導入した。アコースティックでは、F35 12フレット、S35 12フレット、LR BaggsセッションVTC搭載のWee Lowden Jazzモデルが新たに追加された。50シリーズにも新しい木材の組み合わせが追加された。マカッサル・エボニー/シンカー・レッドウッド、マカッサル・エボニー/アルパイン・スプルース。
また、2年にわたる徹底的な研究の結果、ローデン・ギターの新しい弦を発表した。リン青銅に極細加工を施し、より長持ちするようにしたもので、ゲージはエクストラライトからバリトンまで6種類。
しかし、おそらくこれまでで最大の進展として、ローデンはエド・シーランとのコラボレーションを発表し、全く新しいギターの新シリーズ”Sheeran by Lowden” を発売した。これらのギターとその画期的な製造方法は、ギタリストを目指す若者のニーズを満たすためにジョージ・ローデンがデザインしたもので、「アイルランド製の素晴らしいギターを子供たちの手に届ける」というエドとジョージの共同ビジョンを実現するためのものだ。

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