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【小説】虹色歌灯~ニジイロウタアカリ~③

3.トースケ:五月初旬のディープグリーン


 声は、一瞬で空に溶けるから、好きでいられる。

 ゴールデンウィークは、アカリとヨウタの歓迎会と称して、皆で一泊二日、隣県の山中のロッジを借りて、アカペラの練習合宿をすることになった。
 五月初日の早朝、一人暮らし組の僕とアカリが大学前に集合。同じく一人暮らしのアキヒロは一足先に駅近くまで行って、七人乗りのレンタカーを借りてきてくれた。あとは、深夜は二十四時間営業のファミレスで夜通しバイトしているコタロウを拾って、実家暮らしのトモヤとミライ、それにヨウタを最寄り駅や通り沿いでピックアップ。
 しばらくは車内を流れるBGMに合わせて歌ったりもしていたけれど、高揚が一段落すると、皆思い思いに会話をし始めた。一番後ろの座席で、コタロウがアカリの肩に持たれていびきをかいているのが聞こえる。
 僕は免許を取って比較的長い方だから、アキヒロの運転の交代要員として助手席に座っていた。長い長い国道を抜けていく。田園風景と、頬の横を走る五月の風は快適だ。

「トースケ、それ酔わねぇの?」

 運転席からチラ見してくるアキヒロの視線は、僕の手元の文庫本に注がれている。昨日、旅行用に古本屋で仕入れてきた、十年くらい前の芥川賞受賞作家のデビュー作。話の筋はさておき、言葉のリズムが心地いい。

「ああ。慣れてるから」

 今は地元を離れて一人暮らしだけれど、かつては森と、透き通る碧色の海の両方が近くにある場所で、僕は育った。
 海沿いを走る一本きりの電車に揺られ、一時間半もかけて、中学と高校へ通った。登山部と文芸部に所属して、深緑なす自然のままの山に分け入るか、心地よい場所を探して本を読むかの日々。単に、閉塞を感じる場所が苦手なのかもしれない。あるいは、人との付き合いが苦手で、自然を相手にする方が好きなのかもしれない。
 ――自分が、人に執着が持てないことに気付いたのはいつだっただろう。
 コミュ障、という言葉は自分のためにあるんだろうと思う。口を出さずそこにいて、ただ静かに笑っていれば、場はまとまる。それでいい。輪を乱してまで何かを言う必要なんてない。ただ、流れるまま。放った声が片端から消えていくように、追う文字が流れていくように。息苦しくならない場所で静かに生きていたい。僕はそれだけを願っている。
 僕は手元の文庫本に目を戻す。ただ己が心地よい具合で鼻歌を鳴らしつつ、皆の話に加わることなく、僕はただゆるやかに手元のページを繰った。


 ミライの遠縁がやっているという山中のロッジは、木の温かみがありつつとても小奇麗だった。
 背後は深い森。五月の新緑が伸びて青々とした緑に染まりつつある。ロッジの前にはキャンプファイヤーも可能なくらいの広場。バーベキューの道具もそろっていると聞いて、僕らは色めき立った。

「お、トースケご機嫌じゃん」

 ようやく眠りから覚めて車から降りてきたコタロウににへら、と笑いかけられて、僕もぎこちなく笑顔を返す。

「こんな森の中なら、大声出しても大丈夫だな」

 荷物を置くなり早速、発声練習を始めたアキヒロに、ヨウタが自分もやります! と深呼吸。
 僕もその横に立ち、腹の底までたっぷりと息を吸い、一かけらも残さず吐きだしてみる。すがすがしい空気が体に満ちて、心地よい。
 何度も繰り返す。Do、Re、Mi、Fa、So。全員でユニゾン。反響するものがほとんどないけれど、分厚く膨らんだ音が鳴らす倍音が微かに聞こえる。鳥のさえずり、木々のざわめき。So、Ra、Si、Do、Le。

「歌おうよ。あの曲がいいな」

 アカリが提案したのは、新歓ライブの最後で披露した、僕のリードのバラードだった。
 全員がうなずいたので、僕はカウントをとる。アキヒロがピッチパイプを吹いたのを確認して、ワン、ツー、スリー、フォー。全員で声を合わせて、Woo。
 コーラスがゆっくり伸びていく。僕はそれを待つ。ヨウタはまだこの曲を歌えないから、輪の真ん中で静かに目を閉じている。
 ――歌はただ好きなだけで、特に修練した記憶はない。
 だから、大学に入って歌ってみようと思ったのは気まぐれだった。いつだったか、キャンパスの端で、アキヒロとミライ、それにトモヤが揃って楽しそうに空に向かって歌っていたのを見て、知らず足を止めていた。そして、その後誘われた時に、ああ、これならいいかと思ったくらいで。
 そんなだから、マイクを持って歌うのは好きじゃない。カラオケはまったく好まない。ただ、自分の声が空気と混ざり合ってどこまでも伸びていくのが好きなだけ。だから、広い場所で歌を歌うことは爽快だ。今はアキヒロがやたらと機材を持ち出す機会が多くて、正直、少し辟易しているくらいだ。 
 ミライの視線を感じて、そっと横を見る。Bメロになると、ミライがそっと歌詞を追ってハモってくる。アイコンタクトを送ると、微笑んだミライの声がぴたりと沿ってきた。ミライの声はやわらかい性格とは少し違って、凛と美しい輪郭がある。どちらかというと性格がはっきりしているアカリの方が、声はハーモニーに優しく溶ける。人の声がもしその人の本質を映すものだとしたら、ミライの方が意志が固いんだろうな、なんて思いながらクレッシェンド。
 ああ、声がもしその人の本質を映すものだとしたら、僕は随分とまっすぐで、融通が利かない――。
 その通りかもしれない。不器用で、人づきあいが苦手で。恋のバラードなんて歌うけれど、僕は誰かに執着したことがない。ただ、自分が気持ちいいように歌うだけで。
 サビに入って、大きく空に吠えた。
 ミライのソプラノが負けじと重なる。最大音量のアキヒロのベースが、どぉんと太鼓のように腹に落ちて跳ねる。アカリのコーラスが、コタロウのそれと張り合って、溶ける。トモヤが口の周りを覆って、パーカッションの音量を倍増させる。重なり合い、一本の線のようになる声たち。 
 空と森に吸い込まれていく声の軌道が、見えた気がした。
 全員が息を切らすほどの声量で歌いきると、参加していなかったヨウタから、ちぎれんばかりの拍手が降ってきた。緊張の糸が吹っ切れて、皆の表情が途端に柔らかくなった時、驚いたことに、アキヒロが突然ぼろぼろと涙をこぼした。

「俺、自分で歌って感動した……、すげー」
「自分も、めちゃ感動しました!」

 感極まったのか、目のあたりを拭うアキヒロに、ハイテンションのヨウタ。トモヤも興奮気味にうなずいている。

「わたしも、思う。トースケくん、とてもすごかった」

 ミライの声も、その端が震えている。

「どうやったらそんな上手くなれるんだろね。オレもうまくなりてー」
「あんたはまず練習をしなさいよ、音程ぎりぎりよいつも」

 横で、アカリとコタロウが小突きあう中、ミライが、まっすぐにこちらを見ていた。称賛には慣れない。僕は黙ってほんの少し笑う。
 ただ吐き散らかしているだけの歌声が空気以上のものを、僕が最も苦手とする人の心を動かすこともあるなんて、その時は未だ信じられずにいた。

 *

 夕方、アキヒロが車を出して、アカリとミライを連れて買い出しへ。
 僕は、皆で囲めるように小さな櫓を組んで灯火を起こし、そして炭をあたためてバーベキューの下準備をした。野外活動は高校の時の登山部で慣れているせいもあってか、僕が皆に指示を出す珍しい事態だった。トモヤとヨウタが、あまり慣れない手つきで手伝ってくれた。コタロウは、コテージの中で寝ていた。昨夜もその前もバイトでほぼ徹夜って言ってたから仕方ないのだろうけど。
 夕暮れ、灯火は夜に燃え上がる。
 たくさんの食料、紙皿や紙コップを抱えて帰ってきた三人を迎えて、皆で材料を切り、肉も野菜も魚介も焼いてバーベキューをした。ちょっと予算オーバーで明日は焼きそばのみになるらしいけれど、外で食べる食事が美味いのは、いい。
 ほとんど焼き終えた網の上で湯を沸かし、アカリが、持ってきたという茶葉で丁寧にミルクティを淹れてくれた。皆で灯火の周りに寄り添い、まろやかさを紙コップで味わう(練習合宿なので酒は持ち込まないと決めていた。喉に悪いし。あと、アカリは最近、美味しい紅茶を淹れることに凝っているらしい)。一日の疲れがどっと押し寄せてきて、皆めいめいに火の周りに椅子を持ち出してくつろいでいる。
 コタロウは食べ終わるとすぐコテージのベランダに大の字に横になって、アカリが仕方なさそうに膝枕を貸していた。二人はもう、何年も一緒にいたんじゃないかと思えるような雰囲気を醸し出している。どうしてそんな風に、短時間で人と人とは打ち解け合うことができるんだろうか。人との距離を詰める方法がわからない僕には、一生かかっても出来そうにないことのように思える。
 ぱちぱち、と燃える火がはぜる。

「……正直言うとさぁ、もっと人集まってくれるかなって、期待してたんだよ」

 アキヒロは、閑散とした新歓ライブの後に、結局アカリとヨウタ以外の新規部員を獲得できなかったことを今もまだ嘆いている。

「おれは、それはもういいと思うけど。少数精鋭で。アカリは譜面読めてすぐいろいろできるし、ヨウタはじっくり練習に取り組んでくれてるし」

 トモヤが切り返したけれど、アキヒロは紅茶をすすりながら首を横に振る。

「来年は新歓もっと考えないとな。ヨウタがベースできるようになれば、俺は専属で機材やれるし。そしたら、ストリートでもどこでも行けるようになるし、機材のないイベントにだって売り込めるし」

 合宿前に、アキヒロが皆と共有してきたサークル用のスケジュールアプリによれば、月に一、二度ほどイベントの予定が書きこんである。確定しているのは夏休み中の軽音サークルとの対バンライブだけで、他は何一つ決まってはいないけれど、アキヒロはあれこれ調べてきては、エントリーできそうなイベントを探している。
 その熱量は、すごいと思うけれど。

「自分は、本番はまだまだ出られる気がしないけど、もっと練習したいです」
「じゃあ、まずは練習時間を週一から二回とか三回に増やすのはどう? あたしは空きコマなら付き合えるし、っていうかあたしももっといろんな曲に触れてみたいし」

 ヨウタとアカリは、サークルに費やす時間が増えることに抵抗はないようだった。ミライは自分の意見は言わず、まだ発言のない僕らを見ている。

「うーん。そこまで、やらなくてもいいんじゃないかな」

 ……思わず、僕はそう口にしていた。全員のまなざしが僕に突き刺さるのを感じる。

「それぞれの事情もあるだろうし。去年のペースと考えると、この後月一で本番があるなら、僕はしんどい」

 しんどい、という言葉の部分で、アキヒロが眉を吊り上げたのがわかった。雰囲気が尖ったのを察知して、アカリがコタロウを揺り起こして何か耳打ちする。むくりと起きたコタロウは、いつものようにへらへらと笑った。

「んー。ライブ多いのはいいけど、スケジュール詰め込まれると、バイトがなぁ。そうでなくても、オレ下手くその部類だし、練習人一倍時間かかるし」
「おれもサークル掛け持ちだから、ライブ多いと、ブラスバンドとの両立が難しいかも。もちろん、出来るだけ何とかはするけど」
「うーん」

 掛け持ち勢のトモヤまでもがうなずくのを見て、僕以外にもこんな意見が出ると思っていなかったのか、今度はアキヒロが頭を抱えてしまった。助けを求めるようにアキヒロがミライを見つめる。

「あ、わたしは、皆と歌うのが好きだから、練習多いのも、本番ももちろん大歓迎だけど……。こんなふうに、皆と遊びに行ったりとかも、たくさんしたいかなぁ」

 皆との調和を大事にするミライらしい回答だった。僕がその意見にうなずくとミライは少し微笑んだ。アカリとコタロウも、確かに、と囁き合っている。

「本番はともかく、こういう合宿が増えるのは、僕も歓迎する」

 すべてを言い切る前に、アキヒロが大きくため息を吐くのが見えた。ああ、怒っているんだろうな。すぐ感情をあらわにする人は、苦手だ。

「トースケお前さぁ、歌はサイコーだけど、ある意味コタロウよりもやる気ねぇだろ」
「やる気なんて、人に強要されて生まれるものじゃない。僕は、やりたいことだけやりたいし、やりたくないことに無理はしたくない」

 まっすぐに持論を述べると、アキヒロが拳を握って立ち上がった。

「俺がいつお前にやりたくないことまでさせたんだよ」
「ヒロくん!」

 怒気をあらわにしたアキヒロに、ミライが立ち上がって僕の前に立った。

「ミィは俺の味方じゃないのかよ……?」
「……」

 ミライが言葉を失うと、アキヒロの激昂が頂点に達した。

「アキヒロ」

 にやついていない冷静なコタロウの声が、アキヒロのわななく拳に完全なブレーキを掛けるのが見えた。アキヒロはぐしゃぐしゃと短い髪をかき回し、腕でぐっと目を抑えて天を仰ぐ。

「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」

 アキヒロは次の瞬間には身を翻して、暗闇の向こうに消えていく。獣道みたいな斜面をぐいぐいと強引に上がっていく背中が、すぐに見えなくなった。

「え、アキヒロさんちょっと危なくないっすか?」

 ヨウタが慌てて懐中電灯片手にアキヒロを追いかけようとしたが、斜面の角度と視界の悪さにひるんでしまう。

「遭難しちゃうんじゃ……、え、さすがに熊とかはでないよね?」

 アカリの不安げな声に、ミライが、ぺたんと地面に座り込んでしまう。じゅうじゅうと、言い合いの間に焼けすぎた肉や野菜くずがすっかり焦げている。トモヤとコタロウが顔を見合わせて肩をすくめる。

「ヒロくん……」

 視線を戻すと、ミライは、その場でこぶしを握って、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「あたし思うけど、今のは絶対ミライのせいじゃないからね」
「うん、……でも。最近、ヒロくん、ちょっとこう、気持ちが荒れてるというか。……その、ちょっと辛くって」
「うまくいってないの?」
「……うん」

 アカリの問いに、ミライが泣きそうになるのを、僕は黙って見ていた。別に、アキヒロが悪い奴じゃないことは知っている。そしてミライは優しい。皆に気を遣って、柔らかい。
 アキヒロの失踪にざわめきだした皆を、僕はいつものように冷静に見ている。僕はいつでも傍観者でいたいし、それ以上のものにはなりたくない。自分の人生さえ、いつまでも傍観者みたいだ。
 ――それでいいのかい、と五月の深い森の奥から、声がする。

(……たぶん、よくない)

 僕はミライに近づいて、同性にするようにその肩をぽんぽんと叩いた。ミライは、ハッとして身を固くしたように見えた。ミライは人には限りなく優しいのに、優しくされるのには慣れていないんだろうか。

「あり、がと」

 ミライはそう言って、ぎこちなく目を伏せた。そのまなじりからまた、ひとつ、宝石みたいに涙がこぼれた。きれいだと思う。どうしてアキヒロとミライはうまくいかないんだろう。本当のところはよくわからない。けれど、ミライはもっと、自分を大切にした方がいいように見える。
 ほんの少し、自分の中で何かが動く音がした。気が付けばそれは、声になっていた。

「――僕が、アキヒロを探してくる」
「え」
「怒らせたのは僕みたいだし。あと、僕がたぶんこの中で、一番山に慣れてる。アキヒロも遠くまでは行けないはずだから」
「オレも行く。夜行性だし」

 そこまで黙っていたコタロウが神妙な顔で手を挙げたので、皆が驚いて振り向いた。

「え、コタロウはいっても、たぶん役に立たないでしょ」
「まぁまぁ、アカリ。一人よりは二人の方がいいだろ。あと、またトースケとアキヒロが喧嘩したら、オレが仲裁するし」
「……心配なんだけど」

 言動と行動が一致しないまま顔をそむけたアカリに、コタロウが、ガラス細工に触るみたいにやさしくキスをするのが見えた。アカリが真っ赤になって何かをわめく。それを可愛いと、コタロウは笑って宥める。ここまで皆の前で堂々といちゃつけるのも才能だな、と思う。
 ヨウタはLEDのカンテラを車から取ってきてくれた。トモヤは身長の半分ほどの太い枝を拾ってきてくれた。アカリは唇を一文字に結んで僕らにチョコレートと水を渡してきた。ミライはぽろぽろと涙をこぼしながら、僕たちを見送ってくれた。

 ――これは、僕にとって、試練だと思った。

 人と付き合うのが苦手な僕が、これからどうやって人と渡り合って行ったらいいのか。逃げるのではなく、かわすのではなくしっかり前を見据えていくにはどうしたらいいのか。その答えが、この深緑の山奥にある気がして。
 目の前の、暗い細い獣道を、僕らは歩き出した。


 帰りの車の中でも、僕は助手席にいた。

 大半のメンバーが、一昨日の徹夜と昨日のぎっしりした練習のせいで、ぐっすり眠り込んでいる。助手席で居眠りすると、運転手まで眠くなるのではないかと思って、僕は寝ないように心がけて本を読んでいる。目で文字を追うが、ほとんど内容は頭に入ってこない。
 ――アキヒロはあの後、程なくして見つかった。
 少し山道を登ってひらけたところで、大きな岩に持たれてうずくまっていた。少し、声を上げて泣いていた。アキヒロもきっと、僕とは違うタイプの不器用な人間で、苦しんでいる。一つひとつ、違うかたちの生きざまが、生きづらさがあるということ。あの暗い道の奥で、物わかりの悪い僕は、そのことをようやく悟ったように思う。
 皆が寝静まったのを確認して、ゆっくりと切り出す。

「アキヒロ」
「んー?」
「……少しくらいは、いいんじゃないか。練習とイベント、増やしても」
「トースケ?」

 アキヒロが前方から視線をずらしてこちらを見たので、僕もアキヒロに向き合ってまっすぐに告げた。

「いや。皆、歌が好きで集まってるし、熱心だし。僕も歌は好きだし、もちろん皆で歌うのも好きだ。その部分がぶれないなら、いいんじゃないかと思い直した」
「……マジか、トースケ愛してる」

 運転中のアキヒロに抱きつかれて、七人乗りの車はぶぅんと白線を踏んだ。皆寝ていたはずの車内から悲鳴が上がる。僕はその時、たぶんこの皆と集って初めて――そして自分の人生においては随分久しぶりに――声を上げて笑った。
 僕は、手にしていた文庫本を、そっと栞を落とし込んで閉ざす。そして田園を渡る五月の風を頬に受けながら、そっと鼻歌を奏でた。


 声は、一瞬で空に溶けるから、好きでいられる。でも、それだけじゃなかった。
 僕はただ淡々と生き、淡々と死ぬだろう。不器用で、人づきあいも下手だけれど、閉塞さえしなければどこへでも流れていける。
 けれど、声が空に溶ける時、世界とほんの少し一体になれる。声を重ねる皆と、言葉よりも早く、近くつながれる。僕はそれが思ったよりも気に入っているのだと、深い森に抱かれた中で、ようやく気付いた。

 だから、もう少し聴いていてほしいんだ。このあとのミライのソロを、アカリのコーラスの充実を。
 そう、それはもう少し季節が進んだ、夏の頃の話だ。

******************:
NEXT:4.ミライ:七月半ばのミントグリーン へ つづく


全体目次
1.アカリ:四月初めのオレンジ
2.アキヒロ:四月半ばのブルー
3.トースケ:五月初旬のディープグリーン
4.ミライ:七月半ばのミントグリーン
5.トモヤ:九月上旬のパープル
6.ヨウタ:十二月半ばのクリスマスレッド
~間奏:年末年始の無色透明~

7.コタロウ:一月半ばのイエロー
8.アカリ:三月初旬のレインボー

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