見出し画像

「バッタに食べられたい」バッタ博士が、人類を救う挑戦。 #今日のオーディオブック

こんにちは、「積読(つんどく)の書評家」永田希です。文字通り積読にしている本をオーディオブックで聴いてレビューに挑戦しようということになりまして、今回聴いた作品は『バッタを倒しにアフリカへ』(前野 ウルド 浩太郎著、光文社刊)です。

画像1

■ヒトの世界に脅威を及ぼし続けてきた「バッタ」という存在

アフリカに生息している大型のバッタ「サバクトビバッタ」は、数年から数十年おきに不定期に大量発生し、その群れが通過した場所の植物を食い尽くす―。

「神の罰」とも呼ばれて恐れられるサバクトビバッタたちの群れは地平線を覆う圧倒的な規模にまで成長し、人間が食べるための農作物も根こそぎ食べられてしまう為、深刻な食糧難や経済的損失までをも引き起こします。

バッタの大量発生による災害(蝗害:こうがいと呼ばれます)は、聖書や中国の古代史にも登場してきた人類の歴史をたびたび脅かす現象。21世紀に入ってからも、2004年に深刻な蝗害がアフリカ大陸で発生していましたし、今年2020年もやはり蝗害による甚大な損失が危惧されている状況です。

■バッタを倒すヒーローは、「バッタに食べられ」たい昆虫学者

本書は、そんな人類史的なスケールでヒトの世界に脅威をおよぼす蝗害に立ち向かう、若きポスドク青年・前野 ウルド 浩太郎さんの手記です。

と書くと、なんだかヒロイックなストーリーを想像されるかもしれませんが

本書、全編をとおしてなんというか、……キモいです。

ふつう「キモい」というのはかなりネガティブな意味で使われますが、ここでいう「キモい」はそんな単純にシロクロつけて否定できるような簡単なものではない、強い魅力を帯びたものです。

何がキモいのか。

それは生理的嫌悪感を表明する人も多い「ムシ」の、それも、人類という種を危険に晒すほどの規模の大量発生を扱った話だからというのもあります。

しかしながら、どちらかというとキモいのは著者である前野さんなんです。

前野さんは、文字通りの昆虫博士で、昆虫の研究の専門家です。

しかし、「バッタに食べられる」ことに憧れて、「俺を食え!」とサバクトビバッタの群れになぜかバッタのコスプレをして単身で突撃をするんです。

先生、何やってるんですか……?

さまざまな学問分野の、それぞれのエキスパートのなかには、専門外のひとからしたら理解に苦しむ奇行におよぶ方々がいることはよく知られています。しかし、それだけじゃない勢いを感じます。

確かに人類に仇なす蝗害を根絶するために「サバクトビバッタ」の研究をする、という挑戦は立派です。しかし前野さん、どちらかというと、これは、ちょっと後付けで、ほんとうは「バッタに食べられたい」というかなり特殊な性癖と願望のほうが強くありませんかね?

人類を救うとか、アフリカ大陸や、前野さんが拠点にしているモーリタニアの人々を救うとか、それを否定することこそないものの、そういうマクロな大義名分よりも、ミクロな自分の性癖や願望にまっすぐに突き進んでしまう前野さんの「キモさ」がかえって潔く、この前野さんの潔いキモさが、本書の不思議な魅力になっているのです。

前野さんが研究するサバクトビバッタには「相変異」と呼ばれる興味深い生態があります。

平時のサバクトビバッタは彼らが食べる草と同じ緑色なのですが(孤独相と呼ばれる状態)、蝗害を引き起こす大量発生時には茶色や黒に近い色の体色の、活発に活動する個体が多数生まれるようになります(群生相と呼ばれる状態)。前野さん自身も研究を進め、自分をプロデュースする過程で多くのひとたちと関わるようになり「群生相のように活動的になった」と表現している部分がありました。

もし人間もサバクトビバッタのように密集すると活発な群生相が増えるのだとしたら、地球を覆うほど大量に増殖したヒトという生物は自分たちに対しても蝗害のような災害を生み出しているのかもしれません。前野さんの活動は、単に昆虫の生態を研究しているだけではなく、人類に対する洞察も深めてくれる可能性を含んでいるような気がしてきました。

オーディオブックは、プロのナレーターによる読み上げです。

本書も前野さん自身の話を聞いているような、迫真の読み上げで、恐ろしいサバクトビバッタの群れが空を埋め尽くす様子や、前野さんのモーリタニアでのコミカルな日常が語られていきます。前野さんの潔いキモさと、大いなる挑戦を、オーディオブックで楽しんでみてください。

※本書は、文部科学省の「子供の読書キャンペーン」でも推薦されています!

画像2

永田希のアフタートーク
~オーディオブックと本の歴史について~

そもそも最初期の書物である粘土板が使われるようになる前には、ひとびとは前の世代から次の世代へと口承で物語を伝えていました。ギルガメシュ叙事詩も、文字で書き残される前にはひとびとが口から耳へと語り聞かせ合う物語であったと考えられます。

粘土板やパピルスなどの書物が登場して以降、口承で物語を伝える人を「生きた書物」と呼ぶこともあります。耳で聞く物語が、目で読む書物を生んだとも言えるでしょう。

もちろん、目で読む書物は印刷して大量生産ができ、長期間保管できるという強みがあるために、耳で聞く物語よりも数は多くなりました。それでもたとえば幼児に大人が本を読み聞かせしたり、ラジオで音だけのドラマが演じられたり、落語のような話芸の伝統があったりと、耳で聞く物語はまだ滅びたわけではありません。

耳で聞く物語と、目で読む書物はこのように、耳と目という感覚器が別の器官であるように、別の形態なのは言うまでもないことです。別のものでありながら、どちらも「本」として扱われ、流通しているのは興味深い現象です。

プロフィール 永田希
書評家。『週刊金曜日』書評委員。『このマンガがすごい!2020』で『夢中さ、きみに。』『違国日記』『可愛そうにね、元気くん』を担当。時間銀行書店店主。 4/17にイースト・プレスから『積読こそが完全な読書術である』刊行予定。

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?