ルクー その特異な歴史性(の不在)について

 ジャン=ジャック・ルクーの生涯は謎に包まれている。革命で財産を失い、その後ついに日の目を見ることのなかった彼は1825年、書き溜めた図面を図書館に収めて消息を絶った。彼について我々にわかることはあまりに少ない。しかしこの謎を、ルクーの存在と言う最大の謎を、歴史の中の単純な図式に回収してしまっては、ひとりの芸術家による無数の表出から目を背けることになる。だからこそあえてこう問わねばならないだろう。ルクーとはいったい誰だったのか。
 一般的な理解をなぞるとすれば、彼は革命期を生きたフランス人建築家であり、エティエンヌ=ルイ・ブレーやクロード=ニコラ・ルドゥーとともに「ヴィジオネール」「革命的」と形容される一群を形成している、ということになるだろう。この三人が一括りにされる理由を知るために、二人の研究者を引用しよう。まずはじめに、彼らを並列する論調の先駆けとなったと思われるエミール・カウフマンの言葉を借りれば、「これらの革命的な建築家たちは、公益のために、今まで決して存在することのなかったような建築上の構図の数々を考案することによって、この時代の理想をいくつも実現させようと望んだのであった」(*1)。すなわち彼らは装飾過多のバロックから脱却し、素材の持つ特性と純粋幾何学形態を尊重して建築に機能や性格の「表出性」をもたせるという潮流の体現者なのである。また第二に、同じく三人を扱った論文を著した浅田彰によれば、彼らは生涯をかけて多くのドローイングを残したにもかかわらず、その想像力があまりに誇大であったために、あるいは王政から革命を経て帝政へ至る時勢の影響のために、ほとんど実作が存在しないのである(*2)。カウフマンが建築の内容において共通性を見出そうとしたのに対して、浅田は同時代性や事実的な相同をより強調しているが、両者の根底にある企図は相通じている。前者は『ルドゥーからコルビュジエへ』という著作からも分かるように、「革命的建築家」たちに自律した形態を持つ近代建築の起源を求めている。また浅田は「SF的な」ドローイングを描く三人にピラネージを加えて同時代人として扱い、18世紀末にみられる空間表象の「爆発」的な変容を描写することを目指していた。すなわち両者はともに、歴史研究においてブレ、ルドゥー、ルクーをまとめてひとつの点に位置づけることを主眼に置いていたのだった。
 本論が中心に据えようと試みるルクーは、ブレーやルドゥーと比較しても輪をかけて情報の少ない人物であり、享年さえ正確には分からない。そのため、ともすれば売れっ子で影響力もあった他の二人と十把一絡げに、歴史の結節点として不相応な役割を与えられやすい。しかしルクーのドローイングには、カウフマンが求める純粋幾何学形態にも、浅田の求める爆発的な(無限を表象する)空間にも収まりきらない特徴が数多くみられる。一人の芸術家としてのルクーを理解するためには、歴史研究のある種強引な枠組みでは何が汲み取れないのかを探らなくてはならないのである。この点を踏まえ、伝記的事実と彼の作品のイメージとを参照しつつルクーの独自性を探っていくこととしよう。

 ルクーは1757年、ノルマンディー地方の都市ルーアンに生まれた。ブレーとは三十、ルドゥーとは二十、歳が離れている計算になるが、これは当時の流行の変化を考えれば大きな差である。フランスではロココはルイ15世様式、新古典主義はルイ16世様式とも呼ばれるが、ルイ15世から16世へと王位が継承されたのは1774年のことだ。新古典主義の体現者たるブレーやルドゥーが建築家としてのキャリアを積み始めたときに優勢だったのは曲線美と変化を求めるロココだったのに対して、ルクーが1779年漸くパリに赴いたとき、すでに流行は次の段階に移っていたと考えられる。さらにブレーとルドゥーはジャック=フランソワ・ブロンデルという共通の師をもち、彼のもとで16世様式の諸要素を学んだが、ルクーにその経歴はない。この影響関係と時代の違いを見ただけでも、ルクーが他の二人とは異なる環境で建築を学んだことは想像に難くない。どのような因果関係かここで確定することはできないが、実際に彼らの作品をみても、ブレーやルドゥーのドローイングには特に円や球といった幾何学形態が多く登場し、それが建築全体あるいは平面のプランを支配している場合が多いのに対して、ルクーの図案集においてはそういった建築はむしろ少数であり、より装飾的で複雑なものが多くみられるという差が歴然と存在している。ブレーやルドゥーが新古典主義の勃興する時代を生きたとすれば、ルクーにおいてはそうした主義主張はすでに相対化されているのが見て取れるのだ。

 ここに一枚の立面図がある。丘の上に立つ奇怪な建物。中世の城を思わせる円柱状の塔に望遠鏡、反対側には四角い塔の上にギリシャ風神殿がのっている。母屋と塔にはヴェネチア風、ゴシック風などさまざまな形態の窓や扉が開き、奥行きが感じられないのも相まって全体として不調和で不釣り合いな印象を与える。ルクーの数ある図案の中でもこの«Le rendez-vous de Bellevue»『見晴らし台のある待合所』は特異である。これは«Architecture Civile»『市民建築』というルクーの図面集に収められたドローイングで、もちろん実際に建てられてはおらずそもそも建てるために書かれたとも思えないものの一つである。上記のようにさまざまな過去の様式からの引用がそのまま並置されており、建築として全体が統合されるような力が見当たらない。表面は大変なめらかで、石が使われている様子を思い浮かべることはできるが素材が明示されていない。またこの立面図を見ても、建物の機能を推し量ることは難しい(*3)。いま挙げた特徴はいずれも新古典主義的建築の決まりごとから外れていることは明らかである。なぜなら、カウフマンのまとめによればその理念は「高貴な単純さ」にあり、誇張しない壮大さを表現するためにギリシャやローマの建築に取材することにあり、素材の内面的な特性を重視することにあり、建物の機能を形態に物語らせることにあるからだ(*4)。この待合所ではギリシャ神殿は縮小し宙に浮いて荘厳さを失い、ゴシック窓は壁に埋め込まれヴォールト風アーチにもはや機能性はない。ルクーの引用は全て異化された記号であり、客観的な目的も統率する論理もそこには存在しない。ただ奇妙な要素だけがひたすら羅列されているのみなのである。

 この記号の氾濫は、実は図案集自体にも当てはまる問題である。ルクー自らが編纂した«Architecture Civile»には膨大なイメージが収められているが、そこに統一的な編集の意志を読むことは難しい。例えばルクーの多くの作品は実際に書かれた時期が判然としないために、記載が年代順なのかどうか全くわからない。だからといってテーマでまとまっているとも考えにくい。 «Le rendez-vous de Bellevue»は上図のように木でつくられた門や四阿と同じページに収められているが、確かに当時流行っていた自然への回帰と古代の引用が並んでいるとはいえ、両者に何らかの連関があるという印象はない。他のページも然りである。つまりこれらの図案ひとつひとつは、ルクーの個人史において書かれたときという起源を失って宙に浮き、また本の中においても互いの結びつきを見いだせずに漂うばかりである。待合所の沢山の記号と同じ状態が、イメージ自体においても起こっているといえるのである。この点は特にルドゥーの場合と比較すると差異が際立つだろう。五十嵐太郎はブレーからルクーまで三人のノーテーションの仕方を比較しているが、それによれば、ルドゥーの«L'Architecture considérée sous le rapport de l'art, des mœurs et de la législation»『芸術、風俗、法制との関係の下に考察された建築』という建築論・作品集においては、建築図面は挿絵のような立場におかれており、建築論の展開に従って紹介されていく。対してルクーにおいては、イメージを説明する言葉はイメージの中に書きこまれ、同じ枠組みの中で混交している(*5)。もはやルクーの建築はドローイングとしてさえ自律していない。その余白にはたくさんの言葉が書きこまれ、「建築の枠組みを突き抜ける過剰な表象」(*6) が生まれているのである。
 五十嵐太郎はルクーが没落後に地図を作製する下級役人として働いていたことから、ボルヘスの地図に関する怪奇譚を導いているが、やはり「記号の羅列」や「統一的な論理の欠如」というルクーの特徴からフーコー『言葉と物』の序文を連想せずにはいられないだろう。この点はルクーの図面集を再編纂したフィリップ・デュボワも以下のように指摘しているところである。

ルクーの作品は一見して錯乱した想像の産物に見えるが、それらは「シナのある百科事典」の中に含まれうる。ルクーの途方もない功績は、過剰な百科事典的並列によって古典主義的表象が滅んでしまうような空間を構築したことに他ならない。(*7)

 すなわちルクーは「シナのある百科事典」のように、古今の建築様式や、言葉とイメージといった分類(そこにはルクーがその代表格とみなされてきた新古典主義的建築自体も含まれているし、あるいは歴史という19世紀の発明それ自体も含まれているのかもしれない)を成り立たせる場、秩序を失わせてしまっている。この徹底した意味の無化、それこそがルクーの成し遂げたことなのである。
 
 ルクーの生涯は依然として謎に包まれている。しかしルクーの謎を解いて歴史の中に分類し位置づけようとする強引な秩序こそ遠ざけねばなるまい。彼もブレーもルドゥーも互いに違うのは火を見るより明らかだ。さらに言えばルクーは、その作品が秩序を異化するというかぎりにおいて、「革命的建築家」や、近代の起源や、そうしたどのような枠組みにも収まらないだろう。ルクーは常に過去の方を向きながらあらゆる歴史と歴史への欲望を無化し、羅列する。その無意味さをこそ、その無化の人をこそ、見つめなければならないのである。

(*1)カウフマン、エミール『三人の革命的建築家:ブレ、ルドゥー、ルクー』、白井秀和訳、中央公論美術出版、1994 年、p.11
(*2)浅田彰「空間の爆発―ヴィジオネールたちの建築―」、樋口謹⼀編『空間の世紀』、筑摩書房、1988 年、p.322
(*3)三宅理一によればこの待合所はフリーメーソンの神秘の宴のためのものであるが、それが建築の形態に表現されているとは言い難い。三宅理⼀「ジャン=ジャック・ルクー ヘルメティシズムの建築家」、『SD』1981 年4 ⽉号、鹿島出版会、p.36
(*4)カウフマン、前掲書、p.15~55
(*5)五十嵐太郎+菅野裕子『建築と音楽』、NTT出版、2008年、p.192
(*6)同書、p.194
(*7)Philippe Duboy, Lequeu: An Architectural Enigma, trans. by Francis Scarfe and Brad Divitt, Cambridge: MITPress, 1986, p.19  拙訳

・参考文献
浅田彰「空間の爆発―ヴィジオネールたちの建築―」、樋口謹⼀編『空間の世紀』、筑摩書房、1988 年
五十嵐太郎+菅野裕子『建築と音楽』、NTT出版、2008年
三宅理⼀「ジャン=ジャック・ルクー ヘルメティシズム(錬金術)の建築家」、『SD』1981 年4 ⽉号、pp.28-38、⿅島出版会
カウフマン、エミール『三人の革命的建築家:ブレ、ルドゥー、ルクー』、白井秀和訳、中央公論美術出版、1994 年
Philippe Duboy, Lequeu: An Architectural Enigma, trans. by Francis Scarfe and Brad Divitt, Cambridge: MITPress, 1986

図版は全てhttps://gallica.bnf.frによる。

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。