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マツタケとわたしたちのサバイバル 2019.11.29

最近午前中になんの成果も得られない日が続く。
スロースタートの日は、何も生み出さないままに寝てしまうのが怖くって、どうしても夜更かししてしまう。(それで何かすごく勉強するってわけでもないのだけれど。)
そうすると悪循環で、生活リズムが崩れたままずるずると月日が流れていって、もう2019年もあと1ヶ月で、わたしはすぐに24歳とかいうもう取り返しのつかなそうな顔をした年齢になって、しつこい鈍痛のような焦りから逃れようと足をどれだけばたつかせようとも、結局わたしはわたしから抜け出せないという二進も三進もいかない未来が見えている。

今日はマリエル・マセの "Nos cabanes" というエッセーを読む授業。
そこで引用されている "Champignons de la fin du monde"(最近邦訳が『マツタケ』という題ででた)を読んできた人たちの発表。
マツタケは、実は荒廃した森の不安定な均衡状態でしか育つことがないのだが(日本では栽培の試みが繰り返されてきたが未だに成功していないらしい)、オレゴン州の人間に打ち捨てられたある地域は、偶然にもその均衡を手に入れて爆発的なマツタケの生息域になった。当然輸出すれば日本では高級食材として売れるのだから、そこに様々な周縁的な人間たちが集まってきて、マツと、マツタケと、ニンゲンの、複雑に縺れあった生態系が生まれた、という話。

世界の終わり。そこに生まれたマツタケの楽園。

途中で先生が面白い話をしていて、フランス語のdérivéという単語。dériverという動詞は川などの流れを脇にそらすとか何かが進路からそれるという意味だが、語源はラテン語の流れrivus川ripaで、川rivière、河岸riveなどと同根だ。英語のriverも同じだろう。
でもrive系統は他の意味にも派生(dériver)していて、例えばライバルrival、縛りつけるriverがある。ライバル、同じ河を挟んだ向こう岸の奴ら。同じ岸でもいいのか、とにかく、同じ河を使ってる奴らのことだ。そして束縛、生活のためにその河から離れられない、あるいはそれに塞がれて先に進めない、縁ってことだ。riveの古い意味には縁とか端ってのもあるらしい。

語源から想像を広げれば(それが必ず正しいとは限らないけれど)、古代の人々の生活へと行き着く。貴重な淡水を得るための河、アクセスの良さと安全さを兼ね備えた土地の取り合い、固執、束縛。

最近ディスカバリーチャンネルのYouTubeでエド・スタフォードという冒険家のサバイバル番組をよく見る。
"Marooned"という名前のシリーズでは、森の中や無人島など人里離れた場所に全裸のエドがカメラと共に置き去りにされ、その場にある資源だけをなんとか使って10日間を生き抜くというもの。
彼がよくいうのは、生存のためには、「水、火、食糧、そしてシェルター」の4つが必要ということ。なかでも大事なのはいつも水だ。人間は生きるために、たべるよりもまず水を飲まなければならない。だから、安定して淡水を得られる場所から離れることはできない。

もちろんサバイバル中のエドがrivusを名付けた古代人とまったく同じだってわけじゃないけれど(彼にはなにより生物学、栄養学の知識が備わっている)、動画で彼をみていると、人間が自然の中で暮らす上での、もっとも根源的な要求、欲求、欲望がわかってきてとても面白い。
"Marooned"にはとてもうまく生活できる回と苦しむ回とがあって、最も良いときには、彼は自然と一体になる。彼の注意力と創造性(と知識)が、自然の一部になるのがわかる。それは見ている側にも伝わる幸せな瞬間だ。

すべてを剥ぎ取られて奪われて打ち捨てられ荒廃した絶望的な状態(being marooned)で、残った自然(そこには人間の捨てたゴミや瓦礫も含まれる)をなんとか使って、別な形での生を営む。エドやマツタケのように。マリエル・マセはそういう生について書いている。エドは文字通りシェルター=小屋を建てて(faire des cabanes)暮らしているんだ。
そんな風に生きたい、あるいはそんな風な生を守りたい、という気にさせる。

そのためには早起きくらいした方がいいのかしら。
都市のモノ文化のなかで荒廃を自分のものにするって、どんなかしら。
物質的というより精神的な荒廃と、うまく付き合っていけるものかしら。

大昔に買ったネイビーのピーコート(たぶんユニクロ)
H&M 茶色のチェックネルシャツ
Lee スリムデニム
ダークブラウンのソックス
VANS Authentic オフホワイト


お金も欲しいですがコメントも欲しいです。