プロミュージシャンの幼少期ってどんな感じ?【プロベーシストの軌跡①】
こんにちは!
ベーシストの北川アツトです。
プロベーシストの軌跡ということで、今回は第1回目。「自分がどうやってプロミュージシャンになったか」ということで幼少期〜高校くらいまでのお話。ミュージシャンとしての自分を形作ってそうなエピソードなどをいくつか書いてみます。
ちなみにぼくを知らない人のために書いておくと、ぼくはアーティストのライブのサポートやレコーディングでベースを弾いてお金をいただいて生活しているサポートミュージシャンです。プロフィールはこちら。
▼誕生から就学前 ~変わってる父~
生まれてから小学校に入学するまでは特にこれといった音楽的な記憶はないのですが、父親がクラシックギターをやっていたのと、家にはクラシックのCDが結構たくさんありました。
でもクラシックを聞いていた記憶はほぼなし。大量のクラシックのCDは中学生くらいのときにモンスターファーム(プレステのゲームね)のモンスターを生み出すのに使った記憶しかありません。
ただ、直接的ではないのですがなんとなく自分がミュージシャンになるという道を選んだことにつながっているのかなあ?ということがひとつありまして。
それは父親がサラリーマンではなかったということ。
エスペラント語という言語の研究者みたいなことをしているのですが、わりと家にいてなんか自由そう。今だに何やっているかよくわからないけど、エスペラント語界では結構すごいらしい。
そんな父親を見て育ったので、自分がサラリーマンになるというのをあまりイメージできなかったのかもしれないと今となっては思います。
(ミュージシャンの親って何している人が多いんですかね。ちょっと気になりますね。)
ちなみに父親は純日本人なのですが、100%ぼくにエスペラント語で話しかけてました。母親のお腹にいるときから母親が日本語、父親がエスペラント語のバイリンガル教育を受けていたそうです。(エスペラント語はどこの国の言葉でもなく、世界共通語として作られた人工言語です。)
変わってますよね。
変わってるから、人と違うことをする(ミュージシャンになるという道を選ぶ)のにあまり抵抗がなかったのかもしれないとも思います。というかむしろ人と違うの好きだし、人と違わないと嫌くらいかもしれません。
▼小学生 ~フルートをやりたかったのに~
はい。そんなこんなで特に音楽と関係ない幼少期を過ごしましたが、小学生になったくらいで楽器を始めます!パチパチパチパチ。
べたですがヤマハ音楽教室でエレクトーンを習ってました。第1の音楽人生です。
ただ本当はエレクトーンがやりたかったわけじゃないんですよね。
本当はフルートをやりたかったのです。
なぜかはわからないですが、図鑑でみた銀色でシュッとした形のフルートに北川少年は憧れを持ったのでした。そして近所のヤマハの教室にフルートを習いに行ったのですが、フルートは高学年からと言われてしまい、そこでなぜかかわりにエレクトーンを始めたんです。
今思うとフルートとエレクトーンとか違いすぎて、なんで納得してエレクトーン始めちゃってるの?と思いますが、うまく丸め込まれたのです。
たらればを言ってもしょうがないですが、フルート習えてたら全く違う音楽人生だっただろうなあ〜・・・
まあ、そんな感じでエレクトーンを始めたので長続きはせず2年くらいでやめてしまいました。
ただそのおかげもあって五線譜に抵抗がないです。
ギターとかベースだとプロでも五線譜苦手な人結構いますけど、ぼくはそんなことないのはエレクトーン習ってたからかなあと思います。
あとコードを耳コピするときとか作曲するときも鍵盤使うし、役に立ってます。やっぱピアノは楽器の王様だぜ。(やってたのエレクトーンだけど。)
ありがとうヤマハ。
そしてヤマハをやめたあとは特に音楽と接点もない生活がまたしばらく続きます。
ちなみに北川少年は自分が行くであろう近所の中学生たちがみんな同じ制服を着ているのがすごく嫌で、制服がない学校への受験を決意し中高一貫の私立へ通うことになります。
この制服への嫌悪感がどこから来たものかはわからないのですけど、たしかに自分の中にあったことを今でも思い出せます。
今あらためて言語化するなら、個人(個性)が奪われて均質化された集団の一部(無個性)になってしまうことへの抵抗感、といったところでしょうか。
ミュージシャンとしてはもちろん自分が生きていく上でいまだに大事にしている感覚、大事にしたい感覚です。
だからチェーン店より個人でやってる飲食店のほうが好きです。
子連れだとチェーン店まじ助かるけどね。
▼中学生 ~ベースは単音でいい~
さてさて、そんなわけで中高一貫の私立公文国際学園に入りました。
(ぼくが7期生のわりと新しい学校でしたが、自由な校風で先輩にも何人かミュージシャンになっている人がいます。)
中学に入るとギターをやっている友だちが何人かいたり、文化祭でギターを弾いているのを見たりして、なんとなくギターに興味を持ちました。
そこで「そういえばうちに親父のクラシックギターあったなあ」と思いだして、ちょっとギターを触り始めます。エレクトーンにつぐ、第2の音楽人生スタートです。
そして、ギターやってる人ならわかると思いますが、Fというコードで挫折して第2の音楽人生が終了します。
Fは初心者がよくつまづくちょっと押さえるのが難しいコードです。でもキーがC(ハ長調)だとほぼ間違いなく出てくるもんね。あのときギターはキーがGの曲から練習するといいよと教えてくれる人が近くにいたら全く違った音楽人生に・・・。(たられば終了)
ただそこでぼくは自分のせいではなく楽器のせいにしました。
Fが押さえられないのはクラシックギターのネックが太くて弦も硬いからに違いないと思ったわけです。
そしてエレキギター欲しいなあと思ってインターネットでリサーチしました。当時Windows Meです。
そこで北川少年は運命的な出会いを果たします。
エレキベースとの出会いです。
エレキベースの楽器の説明を見ると、低音を支えるとか、バンドにはなくてはならない存在とかいろいろ書いてあったと思うのですが、ぼくが一番魅力に感じたのは
ベースは単音でいい
というところです。
ギターのコードで挫折していたぼくにとって、単音でいい、つまりコードを弾く必要がないということはこの上なく魅力的な知らせでした。
そして学年にはギターをやっている友だちは何人かいましたが、ベースをやっている友だちはあまりいなかったというのも人と違うことをしたいぼくにとってはちょうどよかったのかもしれません。
そんなこんなでエレキギターを探していたはずなのに、親におねだりしてエレキベースを買ってもらいました。
これが中学2年生くらいです。第3の音楽人生がスタートしました。
▼高校生 ~スタジオミュージシャンへの憧れ~
というわけで、全く前向きな理由で始めたわけではなかったベースですが、ギターの友だちと放課後教室のすみで一緒に音出したりして遊ぶところから始まり、高校生にもなると当時流行ってたDragon AshとかBUMP OF CHICKENとかミッシェルガンエレファントとかのコピーバンド学校の文化祭で演奏したり、近くのライブハウスに出たりするようになりました。
自分ひとりではベースマガジンを読んでそこに載ってるJaco PastoriusとかMarcus Millerとかフュージョン系の音楽だったり、Dream TheaterとかRushとかプログレ系の音楽だったり、Mr.Bigとかハードロック系のCD買って練習してました。
ちなみにJaco PastoriusのPortrait of Jaco Pastoriusっていうベーシスト必聴のアルバムみたいなものがあるんですが、それの1曲目のDonna Leeを初めて聞いたときどれがベースかわかりませんでした。自分が知ってたベースと役割も音色も違いすぎて「ん?ベースいた?」みたいな。
そんな感じでプロのミュージシャンになれる気配はまったくなかったし、その当時はなるなんてまったく思っていなかったんですが、あるときギターをやっているB’z好きの友だちのMくんから「スタジオミュージシャン」というものの存在を聞きます。
なんでもスタジオミュージシャンというのは、ありとあらゆるジャンルの音楽が弾けて、当日その場で渡された曲でも即座に弾けてしまうというではありませんか。
めちゃくちゃかっけー!!と思った記憶が鮮明にあります。
そんなことがありえるのか。そんな人たちがいるのか。おどろ木ももの木さんしょの木でした。
ここでスタジオミュージシャンという存在を知ったのはあとから考えるとぼくがミュージシャンになった大きなきっかけの一つだったと思います。
ありがとうMくん。
ただ、そのときにおれもスタジオミュージシャンになりたい!と思ったわけではなく、学校が進学校だったので特に何も考えずに受験して早稲田大学に入ります。
▼大学〜プロになるまで
大学に入ってから、大きく自分の音楽人生、というか人生が変わり始めるのですが、それはまた次回。
大学に入ってからプロになるまでのお話を明日更新します。
▼追記、更新しました!
長文最後まで読んでいただきありがとうございます!
続きもお楽しみにー!なんか知りたいことあったらコメントで教えてください。