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枚方の古墳とか色々②百済王神社と禁野車塚古墳

百済王神社

続いては枚方市にある百済王くだらおう神社です。
百済の王……なんかすごい名前。
まさかここに百済の王が眠っているのか!?

百済王神社

当社の創建時期については諸説ありますが、延宝 九年(一六八の「寺社改帳じしゃあらためちょう」に社名が見え、当時の地誌『河内名所記』にも「百済王の宮」として登場することから、江戸時代前期には旧中宮村の氏神となっていたことがわかります。また、祭神は拝殿の扁額が示すように百済国王及び牛頭天王ごずてんのうで、当社が元は、古代朝鮮半島にあった百済(六六〇年滅亡) 国王の末裔、百済王氏くだらのこにきししの祖霊を祀る神社であったことを今に伝えています。
本殿は春日大社本社本殿の社殿を移築した「春日移し」で、高欄の擬宝珠銘に「文政十年」と刻まれていることから、江戸時代後期の文化五年(一八〇八) 春日大社造営された後、文政一〇年(一八二七) 当社へ移築されたものと考えられます。 保存状態 は極めて良好で、春日大社の本社本殿であった当時の形式を伝える貴重な遺構です。
なお、正面向かって右側にある建物は旧拝殿で、 江戸時代後期の天保七年(一八三六)に再建されたものです。 現在の拝殿が新築されるにあたり、平成一三年(二〇〇一)に移築されました。

二〇一八年
枚方市教育委员会

どうやら王が眠るわけではないけど、百済王の末裔であった百済王氏くだらのこにきししの祖霊を祀っていた神社であるとのこと。

ということはけっきょく百済王を祀っているということですよね。

それにしても、百済の王に疫神・牛頭天王、それから春日大社の古い本殿のリサイクル……色々と設定の多い神社です。

実はここ、グーグルマップをぼーっと見ていてなんとなく気になったから来てみただけの神社だったのですが、思った以上にすごい由緒のある神社でした。


鳥居
神馬像
拝殿


扁額

扁額には「百済國王」「牛頭天王」の文字が。


本殿

春日大社のリサイクル本殿。
春日大社だと、本殿近くまでも行けないので、格子ごしではありますが、この距離で見られるのは眼福です。

本殿脇の狛犬
本殿脇の狛犬
境内社の稲荷神社
稲荷神社・保食神
境内社の相殿社

幾柱かの神様を合わせて祀り、相殿社という社号にしたようです。

八幡神社・品陀別気命ほむだわけのみこと

はちまん様ことほむだわけ、ほんだわけのみことは、応神天皇とされています。


社務所

社務所では御朱印を頂きました。

境内社・浮島神社



浮島神社うきしまじんじゃ  御祭神 高龗神たかおかみのかみ
祭日 七月十八日
(大正二年綴の始めの方)
旧中宮村で郷池之宮浮島に在り、明治五年百済王神社 境内に移されましたが、明治十三年再び池之宮に移され、 「ジョウサン」(龍王のこと)「雨乞の神様」として、崇拝を集めていました。 昭和四十四年不審火により焼失したのを機に、この場所に お祀りされるようになりました。

出た、難読漢字「龗」

「おかみ」は水の神様でいわゆる龍神ですね。
山中の水源などでも祀られることが多いです。

百済寺跡公園

百済王神社の隣は百済寺跡公園になっています。

すぐ隣は百済寺跡として公園になっていました。

百済寺は奈良時代に創建された百済王氏くだらのこにきししのお寺です。

そうでもいいけど、コニキシシがついついコニシキになってしまう。
あれ、KONISHIKI(コニシキ)ってまだご健在ですよね?
もう日本にいないんでしたっけ??


柱の跡
お堂か何かの建っていた跡地

遠くに古墳らしき緑の盛り上がりが見えます。
方角的にたぶん牧野車塚まきのくるまづか古墳なんですが、時間的な余裕もなかったので、この後に向かったのは予定していた禁野車塚きんやくるまづか古墳の方でした。

ちなみに車塚古墳とは前方後円墳の親しみを込めた呼び名です。
後円部を車輪に見立ててそう呼ばれるようになったようです。


禁野車塚古墳

史跡 禁野車塚古墳

で、来ました、禁野車塚古墳。

まあ公園なんですが。

子供が走り回れる広場もあります。
この広場部分が前方部です。


猫もいます。

 

あの繁みが後円部です

ロープが張られていて入れないようになっていました。
くぐれば幾らでも入れそうなロープですが、入りたいとも思えないような繁みです。

立ち入り禁止の看板

サイドに回ってみました。

公園周囲の歩道から。


史跡 禁野車塚古墳きんやくるまづかこふん

天野川右岸の低位段丘上に築かれた古墳時代前期前半 (4世紀前半) の前方後円墳です。 全長120m、後円部径63m. 前方部幅55mという規模に復元できます。 北河内の古墳のなかでは屈指の大きさで、この地域の歴史的発展を語るうえで不可欠な古墳として、1972年に国史跡に指定されました。
から出土したも鋼
2006年に南東隅 (現在位置)で行った確認調査で、地表より約2.5m下で墳丘の裾が見つかったため、2007年に南側 その既存の公園部分と合わせ、史跡の追加指定を受けました。 2008年の再測量調査では古墳のさまざまな特徴が明らかになり、倒卵形気味の後円部に形の前方部が取り付き、後円部 から前方部に至るスロープも明瞭で、 奈良県桜井市の箸墓古墳 などに類似していることがわかりました。
2011年の後円部盗掘坑に対する確認調査では、石釧いしくしろなどの 石製腕飾類や管玉くだだま鉄鏃てつぞくなどの副葬品が出土しました。 また、 大 阪府柏原市芝山産の板石など、 石室に使われたと考えられる石材を多く確認し、埋葬施設は竪穴式石室と推測できるようになり ました。
このように禁野車塚古墳は、 北河内の古墳時代のはじまりを 解明するうえで極めて重要な古墳と言うことができます。

2022年3月 枚方市

大きな前方後円墳ですので、被葬者は地位の高い人物だろうと考えられ、このあたりを支配した肩野物部氏の王の墓ではないかともいわれているようです。


枚方や交野、寝屋川あたりも大変興味深い土地です。

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