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「たくさんぬったらセイカイ」の不思議さに見る、論理と解釈

 電車の中というのは暇なものだ。特に立っている時は。旅行中の1時間は一瞬なのに、なぜ普段の15分はこんなにも長いのだろうか。
 みんなも同じ思いを抱いているのか、電車の中には様々な暇対策が施されている。
 ドア上部の液晶画面はそのひとつである。放送内容は主に広告だが、時々ちょっとしたクイズ番組が流れる。私はよくそのクイズを眺めて、ボーッと答えを考える。

 最近、そのクイズ番組のデザインが変わって、スプラトゥーンというゲームとコラボ(?)するようになった。恐らくスプラトゥーンの新作発売に合わせて、宣伝のためにコラボするようになったのだろう。そのクイズの構成は、問題に対して選択肢が3つ提示され、正解を選ぶというものである。例えば、「ナマコの脚は何本?」に対し、30本、300本、3000本の選択肢が提示される(本当の問題なので答えはヒミツです)。

 これの正解発表の仕方が面白い。私はスプラトゥーンをやったことがないのでよく知らないのだが、チーム対抗で、ひとつのフィールドにチームごとの色のインクを塗っていき、より広い範囲を塗ったチームの勝ちという、陣取りゲームのようなものらしい。このゲームの仕様に則り、クイズの選択肢にそれぞれ色を割り当て、「たくさんぬったらセイカイ!」の合図のもとキャラクターたちがフィールドを塗り始め、一番広く塗られた色の選択肢が正解、という発表の仕方である。

 この「たくさんぬったらセイカイ」というフレーズは不思議な感覚を与える。例えば、各選択肢の色が青、赤、黄で、正解が赤として、もし青や黄が頑張ったら、世界中のナマコの脚の本数が増えたり減ったりするのだろうか。ナマコにとっては迷惑この上ないだろうが、試合が終了した瞬間ナマコに突然変異が起こるのを想像すると少し面白い。

 我々は、「〇〇したら××」という表現から、暗に因果や順序の意図を受け取る。以下、「〇〇したら××」を「AならばB」と言い換える。
 ところで、「AならばB」と「BでないならばAでない」は論理的に同値であることが知られている(いわゆる“対偶”)。例えば、「晴れているならば野球をする」と「野球をしないならば晴れていない」は論理的に同値である。彼が「晴れていたら野球をする」と言っていたのに、今、野球をしていないということは、晴れていないのだ、と論理的に導ける。 

 ここに、因果や順序の意図を付与してみる。「晴れているならば野球をする」、これは例えば、朝起きてカーテンを開けて、空の様子がどうなっているかで野球をやるかどうか決める、ということである。つまり、「野球をする」ことは「晴れている」ことに従属している。「AならばB」という表現に、BはAに従属しているという意図があることは実際多い。
 これと同じことを「BでないならばAでない」でやってもよい。そもそも、何をAとして何をBとするか、どっちをAとしてどっちをAでないとするかはこちらの恣意であって、「晴れている」をAにしてもBにしてもいいし、「晴れていない」をAとしたら「晴れている」は Aでない になる。「野球をしないならば晴れていない」を「AならばB」とし、BはAに従属しているとすると、「晴れていない」ことは「野球をしない」ことに従属しているということになる。

 これでどんな不思議なことが起きるかというと、野球をやらなければ空に厚い雲をかけられる、最強の魔術師が誕生する。
 しかし、当然、我々はそんな魔術師がいるとは考えない。つまり、「野球をしないならば晴れていない」においては、「晴れていない」ことは「野球をしない」ことに従属しているとは考えない。これはなぜかというと、野球をするかどうかで天気を操れるなんてことは実際には有り得ないとみんなが理解しているし、発言者もその意図を有して発言しているとは考えにくいからだろう。

 「たくさんぬったらセイカイ」にも当てはめてみる。「セイカイである」ことが「たくさんぬる」ことに従属しているという意図があると考えてもいいが、実際には考えない。一方で、「たくさんぬったらセイカイ」の対偶である「セイカイでないならたくさんぬらない」においては、「たくさんぬらない」ことが「セイカイでない」ことに従属していると自然に考える。それは、こんな一液晶の中での一演出が生物の身体に直接影響を及ぼすなんて起き得ないし、正解がまず先にあって出来レースとしてこの色塗りが行われていると無意識に理解しているからだと考えられる。

 しかしこの場合においては、対抗してくる感覚が私の中にある。その感覚は、実際のスプラトゥーンは出来レースではないことから来ている。八百長なんて(きっと)ないし、ウデマエの差でどのチームが勝ちそうかなんとなく予想がついてしまうことはあれど、他のことに左右されることなく真剣勝負でどこも勝つ可能性がある。このことが、クイズにおいては演出上の出来レースであるという無意識の理解を曇らせ、塗り方で正解が変わる意図があるように感じさせ、不思議な感覚を与える。
 人間は、論理的には何もおかしくない言葉に対して、解釈の過程で様々な前提を無意識にも付け加え、意味を歪ませてしまうことがある。もちろん、毎回意図を正確に反映して厳密に発言しようと思ったらとんでもない量を話さなければならず、そこを暗黙の前提に委ねてコンパクトな発話量で済むようにしたのは人間の凄いところであるが、同時に危うさも孕んでいる。

 また、そういった暗黙の前提は我々が今いる現実世界の法則が生じさせるものであるが、塗り具合によって本当に正解が変わる世界も論理的には存在可能である。野球をしないことで天気を操れる魔術師が実在したっていい。もし自分の生きる世界がそれだったら……どんな日常を送っているのだろうか。テストで答えを間違えるたびにスプラトゥーンを起動して、満点を取ったことにできるのだろうか。雨天中止になってほしい行事があったら、グローブとボールを押し入れの奥にしまうのだろうか──なかなか素敵で危険な生活のようである。


 そこまで考えて、“世界旅行”から帰ってきた。電車はちょうど川を渡るところで、真っさらな河川敷の野球場を、冬の冷たくも澄んだ陽射しが照らしていた。

 川……川か…………。

 私は静かに、旅客営業規則を検索し始めた。誤乗した際の運賃について調べるために。


p.s.
 この記事を読んでくれた友人が、「このフレーズは、多数派の盲信へのアンチテーゼではないか」という案を冗談めかして出してくれた。本当に冗談で済むのかは、私達にはわからない。

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