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フェイの仕事

責任とは一体、なんだろうか。

せき‐にん【責任】
責めを負ってなさなければならない任務。
引き受けてしなければならない義務。

赤子の頃は必要が無かったのに、年をとるごとに積み重なっていく。

任務や義務の多くは仕事から生まれ、人々はそれぞれの役割を果たしていく。

厳しくつらい責任の中にも、人の暖かさがある。

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タイ王国の首都・バンコクは首都圏に人口約800万人を抱える大都市で、郊外まで含むと1600万人に達する巨大都市である。

アジアの街といえばどうしても雑多なイメージが浮かぶけど、初めて訪れた時、トーキョーよりもずっと都市開発が進んでいる印象があった。

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バンコクは鉄道や道路が広範囲に網羅されている

飛行機がスワンナプーム国際空港に着陸すると、ベルト着用のサインが消える前に、大勢の人々が待ちきれずベルトを外してしまうシーンが、タイに着いた1つの合図の様になっていた。

機内のエントリードアが開くと、一斉にお香とジャスミンが混じったような熱気が充満する。

アジア圏を旅をしている人は気付くと思うのだけど、国によってこの空気の香りがちょっとずつ違う。
正確なことは言えないが、中国なら茴香(ういきょう・ハッカク)の香りがするし、ベトナムだとヌクマム(魚醤)の香りを感じて、景色よりも先に飛び込んでくる空気で、その国に着いたことがわかる時がある。

海外から日本に来る人の中には、空港に到着すると醤油の香りがすると言われるのだけど、僕は幾度帰国してもそれがわからない。
それでも、多くの人がそう話すので、国ごとに感じる独特の香りは、来訪者だけが感じる特有のモノなのかもしれない。

スワンナプームからバンコク中心部へアクセスできるハイウェイは片側4~5車線というかなり広い道を走るのだけど、それでも朝夕のラッシュには部分的に渋滞をする。
これがトーキョーの狭い首都高速で起きたら一体どうなるのか、そんな想像するだけでも、ちょっと楽しかった。

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夕刻には空港に到着し、高速でバンコク市内へ向かう頃には、街の灯りは最高潮に達していた。

いつも通り決まったホテルに到着すると、フロントでは笑顔で迎えるエージェントの姿があった。
彼は中年小太りのおっさんだが、いつも気さくで様々な取引先を探してくれる、付き合いの長い男だ。

明日から新しい訪問先へ向かうのだが、彼はちょっと気まずそうに言った。

「工場に1人、なかなかアグレッシブな女性がいましてね、私はその人の態度だけ、ちょっと心配なのです」

彼の言う”アグレッシブ”をどう解釈すればよいのか考えたが、よく考えると考えても仕方ないことでもあるので、明日以降、会って話すしかなかった。

早朝から訪れた工場はとても大きく、国内でも有数の規模を誇っていた。
奥まで案内された広い応接室で待っていると、担当の男の子と女性がやってきて、挨拶をした。

フェイ(Fay)は、僕が想像していたよりもずっと年上の女性だった。
形式的な自己紹介を済ませ、ちょっとした余談をしたが、男の子は笑顔だったのに対し、彼女はほとんど笑っていない。

会話はうろ覚えだが、気候か何かの話をしていて、相変わらずバンコクは暑いですね、という様な会話をすると、フェイは突然、

「ここでは当たり前の話です。要件の詳細を」

と、笑顔も無く言った。
僕は少し驚いて横を向くと、エージェントは少しだけバツが悪そうに、申し訳なさそうな顔をした。

ただ、僕は昨夜に彼から”アグレッシブ”の意味を聞いておいて良かったし、割り切って話し始めると、彼女は持っていたノートにとても綺麗な字で内容をメモし始めた。

彼女の仕事はQC(クオリティーコントロール)と呼び、製品の品質管理全てを担う職務だ。

正確には、QCとは幾つかのエリアに分かれるのだけど、彼女はその中でも最も厳しい管理を必要とされる工程で、重大なミスが工場の命取りにもなる重要な部署のトップだった。

会議中、彼女が首からぶら下げている携帯電話は、ひっきりなしに鳴っていた。
数回に一度電話を取っては、現場へ的確な指示を出す。
その姿を見ていて、彼女の置かれている立場を理解した。

打合せが終わり、視察を兼ねて現場に入ると、同行する彼女の説明は簡潔明瞭で、とにかく無駄が少ない。

どの部屋に入ってもフェイが入室したとわかると、その部屋の空気がギュッと引き締まるのが、ビジターである僕にでもわかった。

初めて訪れてから約2年が経過し、フェイとも少しずつだが無駄話をする様になった。

彼女はバンコクの出身で、大学の頃から専攻していたという応用化学を活かし、品質管理のプロとして様々な企業で働き、40年近く勤めている。
そして、彼女はあと数年で引退をするということも知った。

ある日、工場にいる若手の女性工員が、仕事を辞めたいと言ってきた。
僕も何度か話をしたことがあるので知っていたが、若いのに手先がとても器用で、人望もあった。

彼女はコーンケン(県)というタイ東北部の出身で、とても真面目な性格だったが、バンコクにいる友人達の華やかな生活をみていて、自分もそんな風になりたいとフェイに伝えたそうだ。

その話を聞いた時、きっと僕が若い頃でも同じことを考えるだろうと思った。
まだ世間を知らぬ若者が、華やかで煌びやかな毎日を送りたいと思うのは至極当然だし、いくらいい企業で働いているとしても、工場の仕事はそんな生活とは正反対にある。

フェイは数日間、時間を見つけては彼女を呼び、話し合っていた。
QCとして行う任務では無いのだけど、フェイは工場にいる工員達の母でもあり、そしてよき相談相手でもあった。

色んな相談を受ければ受けるほど、彼女の仕事は遅くなる。
稀に僕達が遅くまで打合せをした夜も、ヘッドオフィスで1人パソコンに向かう彼女の姿を、何度も目にした。

数か月後に訪問をした際、先日の件を訪ねると、彼女は工場に残ることを決めたという。

僕は少し冗談交じりで、一体どんな魔法を使ったのかと尋ねると、フェイには1人娘がいて、若い頃に娘が反抗期で家を出て行ってしまったことがあったそうだ。
フェイは当時の娘と彼女が重なり、不思議と優しい気持ちになれたという。

「私は、毎日若い工員達から学ぶことが多い」

そう、珍しく笑顔で呟いた。

その後も工場とは継続的な取引が続き、その間大きな問題は1つも起きなかった。

ある日、エージェントから送られてきた1通のメールで、彼女が来年の春でリタイアをするというメールを受けた。

工場のスタッフ達は、バンコク市内で彼女の引退式をした。
レストランには多くのQCや工員が集まり、僕も招待された。

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職場ではほとんど見た事の無いフェイの笑い声が、印象的だった。

宴の最後に挨拶をして欲しいと司会者が告げると、フェイは嫌がったが皆に囃し立てられ、無理矢理壇上に上げられた。

フェイは静かに一呼吸して笑うと、皆もつられて小さく笑った。

彼女は今まで仕事で厳しく皆に接してきたことを詫び、これからは貴方達が想像する、貴方達の仕事を作り上げることが、最後の職務命令だと言った。

そして、私はこれから可愛い孫達との生活が待っていると照れくさそうにスピーチを終えると、みんな笑いながら泣いていた。
その工員の中には、新しくQCのサブリーダーとして働くことになった、件の若い女性工員の姿もあった。

彼女が遺した多くの仕組みや管理記録は、今でも工場の大切な財産として残っていて、フェイにそっくりなQCがたくさん産まれた。

様々な国で数々のQCと出会ってきたが、僕は未だにフェイほど厳しく、強く、そして優しいQCを知らない。

お香とジャスミンの香りが混じる、いい夜だった。

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