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ラスベガスとフトモモ


前回、優秀で真面目なテキサスの従兄弟について少し書いた。

彼らは幼少期からアクティブで、高校時代は2人揃ってアメフトに熱中した。学業も優秀で、州内でもイチニを争う大学に入るという漫画に出てきそうなエリートだった。
身体はデカイけど性格は極めて温厚で、頼れる兄貴分みたいな感覚だった。

彼らが大学を卒業する頃、僕は全てのカリキュラムを終えていたので、残りの数カ月は自由気ままな生活をおくれる状態だった。

一方の彼らは社会人になる間際だったので、僕にこのまま実家の田舎に残るか、新天地となる大きな街へ一緒に引っ越すかの選択肢をくれた。
長閑なカントリーサイドの雰囲気もとても好きだったので悩んだが、最後は彼らについていくことにした。

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テキサス州南部・サンアントニオという街は、大きいけどダラスやヒューストンの様に高層ビルが建ち並ぶ灰色なイメージとは違い、ビビットな色を感じる明るい街だった。(好悪の話とはまた違う
大人になってもこの街の事を話す度、各州の人からあそこは理想の街だと言われる事が多いので、きっと彼らの認識とも大きな違いは無いのだろう。

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メキシコから近い事もありヒスパニック系も多く暮らし、テクスメクス(Tex-Mex)なんて言葉もあるように、上手にアメリカナイズされた料理はどれも美味しかった記憶が残っている。

新しい街に引っ越して間もなく、遠くにクルマで旅に出ないかという話になった。
彼らはおそらく社会人になる前の卒業旅行的なモノだったと思うし、こちらも帰国の日が見えていた事もあって、そんな素敵な計画を提案してくれた。

従兄弟の弟には彼女がいて、マーシーといった。
新天地へ引っ越すタイミングで、彼女も一緒に合流して暮らす事になった。
新しい家は十分なスペースのある広い借家だったので、4人は快適な生活をおくれた。

彼女は最終的に弟と結婚する事になるのだけど、美人で明るく、何よりもノリの良いエンターテイナーだ。

行き先を数日話し合った結果、最終目的地はラスベガスに決まった。
地図を確認すると、サンアントニオから片道1500マイル(≒2,400km)の旅。
旅にはいくつか目的があったが、その一つに

”66号線でナタリーコール(ナットキングコール)の”Route66”を流し、熱唱する”

というのがあった。

その為、南部サンアントニオから一旦オクラホマ近くまで北上し(アマリロ経由)、西へ向かうというアホな旅程が設定された。

毎度のやる気のない地図で申し訳ないが、位置関係はこんな感じ。

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普通に考えればオレンジルートが最短だが、それだとルート66に辿り着けない。
青ルートは500㎞近くも余計に走る事になるが、目的の為ならやろうという事になった。

若いって良いなと、今になってつくづく思う。

因みにルート66というのはとっくに廃線になっているんだけど、番号だけが置き換わったルート40(旧66)を軸に西へと進むという旅程になった。

旅の前日は、昔も今もワクワクする。
忘れ物のチェックですら楽しく、事前に買ったフィルムや電池もありったけを用意した。(*プレイステーションも持参してたのが笑える)

途中、各地にある観光スポットを寄りながら行く事になったんだけど、この旅には1つだけ大きな問題があった。

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出発して500㎞前後

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出発して1200㎞前後

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出発して1800㎞前後(Google mapより)

景色が果てしなく一緒なのである。
これには従兄弟もあまり想像していなかった様で、旅立って早々、全員が漏れなく飽きた。
それに、カーブが無いというのは日本ではほぼ皆無だし最初は爽快なんだけど、やっぱり飽きた。

そして重要な目的であったナタリーのRoute66に関しては、2〜3回ほど歌ってすぐに終わった。

途中、とても深いケーブ(洞窟)を見たり、フォーコーナーズという4州を跨ぐ境界線まで余計に数百キロ走った挙句、あまりの”だからどうした感”に放心状態になったり、ゴーストタウンが連続するエリアでは宿が見つからず、夜通し運転したりしながらも、順調に旅の目的地・ラスベガスに着いた。

ラスベガスのすぐ東側には、市内の大電力を支えるフーバーダムがあって、そこからゆっくり中心部へ下っていく際に見える砂漠の真ん中からいきなり現れたラスベガスの夜景は本当に美しく、人工物だけでここまで綺麗だと思う景色は、初めてだったかもしれない。

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あまりにも広大過ぎる景色では度々、”カメラではどうしようもない画角”というのがあって、当時は広角カメラで何枚も撮影したのに、後日現像してみると全然伝わらないもどかしい景色がたくさんあった。(上記画像はラスベガスのツアーサイト写真。この何倍も横方向に街の景色が広がる)

何時間も真っ暗だった景色から、急に目がショボショボする様な電飾にまみれた街に突入する。

街はざっくり旧市街と新市街に分かれていて、新市街の豪華絢爛なホテルも捨て難いが、クラシックでヒストリカルな雰囲気を愉しむなら、旧市街がおすすめだ。

従兄弟達とここで数日間のんびり過ごした。
カジノは何処も基本24時間やっていて、眠らない街である。
カジノ以外の施設も終日開いていて、街中には至る所にジャックポット(大当たり)が出た人の為に即時結婚出来る様に教会がたくさんあったり、負け続けた人の為に金品をいつでも売れる質屋が山の様にあって、よりギャンブルのリアルさを引き立たせる光景があった。

ギャンブルはそこそこ楽しんだけど、それよりは山の様にあるエンターテインメントショーを連日楽しんだ。

最終日の前夜、ディナー中に従兄弟達が僕に耳打ちをした。

ラスベガスと言えばストリップも歴史的に有名で(”通り”の意味のストリップではない方)、夜にマーシーが寝静まったあと、カジノに行くと言って抜け出そうと画策していた。

いかにも真面目でエリートっぽいその計画はちょっとだけ涙ぐましいとも思ったが、いつもそんな紳士的な従兄弟達の事も好きだった。

旧市街にあるストリップ劇場はとても風格があって、やや暗めの店内に入ると、辺りにはウイスキーとナッツの匂いが立ち込めた。

暫くすると、アラレモナイ格好の女性がテーブルへと案内してくれた。
酒とツマミを頼み、ショータイムが始まると、素晴らしい音響と共に舞台の上で踊りだすダンサー達。
エッチな服装はしてるんだけど、どちらかと言えばカッコいいという言葉の方が似合っていた。
これだけ踊れればきっと映画で見るようなオーディションもあるんだろうし、そんな世界のプロ達もすごいなと感じた。

観客達は、どうやったらあんな大きな音が出るのか未だに構造が理解出来ない程の大きな指笛を鳴らし、大声で狂喜乱舞する。
次第にショーがピークに達しようとしたその時、マイクでこんな案内があった。

「今日はとても素晴らしい日だ。お客になんと〇〇〇が来ているんだ!!」

この〇〇〇が未だに思い出せないんだけど、有名なカントリーシンガーだったと思う。彼が支払ったというチップは桁違いで、踊り子やバックヤードを含む全ての従業員に数百ドルが行き渡る金額を支払ったそうだ。

観客もそれを聞いて騒然とし、店の盛り上がりは最高潮に達した。

すると、ウキウキになった踊り子達が一斉に舞台から降り、観客の上で踊りだした。
”上”というのは、客の座っている腿の上にアラレモナイダンサー達が、ヒザ立ちになるような形になって踊った。
(これがいつもの事なのかはわからないけど。)

柔軟剤の様な香水の様な強い香りがするキラビヤカな女性が、僕の腿の上に笑顔でやってきた。

僕はそこで、大声を出した。

狂喜の叫びではない。

めちゃくちゃ痛いのだ。

ただでさえ華奢で骨ばった腿の上に、ドンとヒザ立ちされた衝撃は今でも忘れない。

観客も踊り子も一同ピークに達し叫んでいる中、多分フロアの中で僕だけがめちゃくちゃ違う方向で叫んでいる。

店内は隣ですら会話が聞こえない程の音量が鳴り響いている。

叫んでいるのを目にした目の前のダンサーは、僕が喜んでいると思いさらにグリグリしてくるという地獄のサイクルが続く。

痛いと言えばいいのだけど、なんとなくそれが凄く失礼な事なのではと感じてしまい、結局最後まで独り悶絶するだけのショータイムになった。

隣を見れば、従兄弟達はそのヒザ立ちダンスを意に介さず、周囲の観客同様、狂喜乱舞していた。
つくづく、奴らとの身体の作りの違いを痛感した。

ショーが終わり、余韻と共に徐々に静けさを取り戻す店内。
少し飲んで、ホテルに戻ろうと立ち上がったその時、僕は床に崩れ落ちた。
両方の腿は青タンが出来ていて、まともに歩く事が出来ない。

従兄弟達はそれを見て心配してくれているのかと思いきや、翌日マーシーにどんな言い訳をするのかで話し合っていた事は今でも少しだけ根にもっている。

結局、僕は酔ってよそ見して歩いていた為に、路上を走っていたタクシーにブツかったという無茶苦茶な設定で翌日を迎えた。

それ以降、この旅の終わりまでマーシーが僕を気遣ってくれる光景を見る度に、スープやバーガーを吹き出す従兄弟達との旅は、今でも本当に最高の旅だった。





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