【映画レビュー】スウィング・キッズ 評価:△

■朝鮮戦争下の収容所を舞台にしたミュージカル映画

冒頭、北朝鮮のレトロで「いかにも」なプロパガンダ映像が流れ、それを苦々しい表情で見つめる男たちが映し出される。1951年、南朝鮮側の巨済(コジェ)島の収容所の所長室である。新しく所長に就任したというアメリカ人将校から、その部下、捕虜で靴磨きの男が居合わせて、共産主義に対する恐怖、収容所の経営方針やら話し合っている。そこから画面を転じ、本作の主役であるロ・ギス(D.O.)が颯爽と現れると、やがてこの奇妙な収容所の様相があらわとなってくる。

朝鮮戦争において、溢れかえるほどの大量の捕虜をぶち込むため、アメリカが建造したのが巨済収容所だった。その他、済州島などにも同様の収容所が作られた。で、そこは自由を掲げる国アメリカが運営しているのだが、その為なのか、作中の収容所はどこか明るくて、にぎやかだったりするから驚きだ。プロットが進行するにつれて収容所内の暴動や虐殺といった酸鼻を極める展開に転がっていくのだが、そういた明るさのようなものは最後まで失われない。確かにまぁ不潔だし、こんな場所に連行されたら三日と生き残れない自信がある。が、それでもあるていどの自主性、自由が横溢しているのである。なにしろ『スウィング・キッズ』の捕虜どもときたら井戸端会議をしながら青空の下陽気に包丁をふるって飯を炊き、歌いながら洗濯したりしているのだから。

面白いことに、収容所の中が「南」と「北」に分離してしまっている。文字通りフェンスと鉄条網で分断されている。収容されてるのは北朝鮮や中国共産党の兵士なのだが、北から転向した者たちについては別の場所に隔離されているのだ(描写をみる限りでは、待遇はそれほど変わらなそうだ。北の捕虜から「転向者」とか「裏切り者」呼ばわりされててちょっとかわいそう)。つまるところ、思想の自由すら許されていた訳だ。北側のゲットーの至る場所にどどんと金日成の肖像画が書かれていて、思わず笑いを誘う。こりゃあ暴動もやむなしといったところである。


管理者側の米軍にもずいぶんと甘いところがあって、確かに暴力を振るう輩もいるにはいる。が、手持無沙汰な捕虜に職業訓練をさせたり、チョコをあげたり、陽気でホットなダンスバトルを仕掛けたり、捕虜のためにクリスマスパーティを開いたり……と一見するとどこか憎めない存在だったりする。それは例のトチ狂った例のラストで見事なまで覆されるわけだが。

こうした表現は、ぶっちゃけるとまじファンタジー、な訳だ。しかも、そこから国籍を越えたタップダンスのドリームチームが結成されるのだから、なおさらだったりする。我々が収容所と聞けばナチスの絶滅収容所や、ソルジェニーツィンやワシーリー・グロスマンが書いたソ連の収容所を思い浮かべる人も多いだろう。そういう情報から、我々は収容所というのは場所時代を問わず最低最悪な生活環境に違いないと知っている。そこで行われたおぞましき悪行の数々は、この朝鮮戦争最中の収容所では見られなかったか?

こうした戦渦におけるファンタジーというやつは、人間の、当事者たちの頭の中でひねり出されて生まれる。過酷な現実の代替として、だ。ときに、そうした現実が妄想に置き換わることがある。仮に代替世界と呼びたい。もっとも残酷なやり方でホロコーストの本質をあぶり出したイタリア映画の傑作『ライフ・イズ・ビューティフル』や、ロシア・グルジア紛争をテーマにした異色のロボ映画『オーガストウォーズ』といった映画では、リアルを上塗りするかのように代替世界が描かれる。そうしたユニークさを持っている。

『スウィング・キッズ』もまた、代替世界映画の一つではあるまいか。劇中、はっきりそうと明言されていない。が、根拠がない訳ではない。ギスと多文化チームの架け橋となる無認可翻訳士(!)のヤン・パンネ(パク・ヘス)がぬかるみの中舞いながら駆け抜けていくシークエンスがある。収容所を越えてどこまでもどこまでも……これは二人の想像であることが判明する。もし今までのファンタジーも彼らが生み出したものだとしたら、と考えられなくもない。そして、この辺りからにわかに映画はそのトーンを変え、陰鬱なムードが漂い始めるのだから。

いずれにしても、こりゃ間違いなく盛っているには違いねぇ。と鑑賞中つい構えてしまう反面、本作が提案するファンタジーは絵的にも相当質がよく、見ていて居心地がよかったりする。そうした『スウィング・キッズ』のファンタジーは、圧巻のラストパフォーマンスにおいて、最高潮、臨界点の極みを迎える。彼らが一歩つま先を鳴らして踏み出すたびに地震のように画面が揺れ、兎に角、これからどえらいことが起こるとしか思えない熱量がスクリーンから放たれる。かれこれ2時間近くダンスチームの姿を見守り続けた観客は、すでにチームの一員のようなものだ。早く彼らにタップを躍らせてくれ! ここから先は敢えて詳細はかくまい。ぜひ劇場で迫真の、真のタップを味わっていただきたい。その質たるや、ミュージカル映画としてまさに一級品である。

■プロパガンダ映画としての『スウィング・キッズ』

『スウィング・キッズ』はそうしたファンタジーだらけの気楽なミュージカルではない。徐々にではあるが、最初の陽気なムードを覆い隠すかのように、戦争映画としての側面が姿を現す。わずかな食い物のために体を売ったり、「アカ」と石を投げられて迫害される女性たちがいる。イデオロギーの違いから体を切り刻まれたり、火あぶりにされた南への転向者たちがいる。そしてあのガラガラポンのラストである。

朝鮮戦争に関しては数多くの作品が発表されてきた。巨匠、イム・グォンテグ監督の『太白山脈(テベクさんみゃく)』をはじめ、カン・ジェギュ監督『ブラザーフッド』、『トンマッコルへようこそ』……実に枚挙に暇がない。その他、ハリウッド進出を果たしたパク・チャヌク監督の『JSA』など、現代を舞台にしているものの、広義の朝鮮戦争ものといえるだろう。『スウィング・キッズ』もまたその系譜に名を連ねる。のだが、それらの中でも異色の作品だったりする。

何が異色なのか。ぶっちゃけるとすさまじい反米映画なのだった。その憎悪たるやくそヤバいというやつだ。見る者に対して、明らかに反米思想を植え付けようとする意志がありありなのだ。政治利用のために持ち出されたプロパガンダとみていい。朝鮮戦争=米ソの代理戦争の中、連合国(アメリカ)というケツモチの都合で生かされたり殺されたりする弱くて罪なき朝鮮民族、という構図があの収容所の中に描き出される。前述のファンタジー、つまるところ多民族が手を取り合う優しい世界を壊すのは、我らがアメリカ様である。

が、朝鮮戦争は間違いなく代理戦争でもあった。それは朝鮮の人々に限らなかった。アフガニスタン然り、ベトナム然り。くそイデオロギーによって分断された挙げ句に国民同士が殺し合う、最低最悪の紛争は起きていたのである。

この映画にはアメリカはおろか、北の人々に対する複雑怪奇な思いがこめられている。それは韓国の人々が抱える憎悪や罪悪感がないまぜになったような感情だ。そう、まだこの戦争は総括をされていないのだ。なぜなら現在も「休戦」状態であり、戦争は続いているからだ。

そうしたスタイルは先述の『トンマッコルへようこそ』等の脚本でも使われている。で、トンマッコルは韓国で大成功の反面、スウィングはまさかの大ゴケだったという。2018年、同時期に公開された『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』や『ボヘミアン・ラプソティ』といった大作の勢いに敗北したのもあるだろうが、プロパガンダ的な解釈に限界が来ている気がしてならない。この戦争に対する新たな視点みたいなものを、韓国の人々は求めている気がする。

■ で、渦中のアップリンクでみた

無事梅雨入りを果たした東京、渋谷の空は、なんだかノイズ色を呈していた。つまり一雨来そうな曇り空だった。現在『スウィング・キッズ』は都内だとアップリンク渋谷、吉祥寺で公開中である。で、比較的アクセスしやすい(つっても千葉から40分くらいかかるが)渋谷にやってきたという訳である。

そう、あのパワハラ事件のおかげで(悪い意味で)バズってしまったアップリンクである。元従業員たちの会見や後に発せられた代表浅井隆氏の声明を見る限り、被告の浅井氏が絵に書いたようなパワハラ野郎であったことは間違いない。とりあえず本件に関しては、原告の元従業員たちを支持したい。

アップリンク渋谷は平穏そのもので、自粛明けにも関わらず『スウィング・キッズ』は満席(といってもコロチャン対策で1席空けなのだが)。鑑賞中は時折、笑い声やすすり泣く声が響いた。流石にあの気の狂ったラストでは息を呑む気配がしたが、それでも反応を見る限り、お客さんはそれなりに満足し帰路についたに違いない。

こういう映画を流してくれる貴重な場所には違いない。どうか、気持ちを新たにやり直してほしいと思う。

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