人に世話を焼くのは難しいけれども… 映画『アイの歌声を聴かせて』レビュー

多作を極めるVシネ界のアニキこと哀川翔が出演した映画の一本に『しあわせになろうね』というものがある。脚本が大変練られていて面白い映画だ。あらすじは、組を畳んでこれから真っ当な道を歩もうとしている極道たちが文字通り「幸福」を掴むために、お互いに力を合わせて、せまい事務所の中で奮闘する。事務所の中でのみ展開される舞台的な実験映画でもあり、どこかおどけたソリッドシチュエーション的な任侠コメディな側面もある。足を洗いたくても中々洗えさせてもらえないのがこの社会というものであって、そこでもがく彼らの悲哀みたいなものも描かれる。それはともかくとして、「カタギになってみんな揃ってしあわせになろうや」という思いは、どこか間抜けなひらがなタイトルに集約されている。

つまるところ人間誰しも「皆で、幸せになろうね」という思いで、何だかんだあくせく生きているのではないか。「おれは絶対幸せになってやる」ではない。それでは「おれだけ」幸せになってやるという独りよがりなものになってしまう。「みんなで」幸せになろうよというのが肝要なのだ。ある種の共犯意識的なものが、「幸福」という言葉に付随されていると思ったりする。

本作『アイの歌声を聴かせて』に登場するAIのシオンは、「あなたは幸せ?」と無邪気な顔で尋ねるものだから、我々観客もハッとさせられてしまう。その言葉は、登場人物というよりそれまで映画館の席でふんぞり返って映画を見ている私達に投げかけられたものだ。「あなたは幸せ?」と質されて「おう、俺は本当に幸せだぜ」と胸を張って答えられる人間はこの世にどれほどいるだろうか。私はそんな人間はまずいないと思っている。むしろ、成功者や大富豪ほど何かしら自分が手にした成功と裏腹にやましさのようなものを感じているのではないか。なにしろこの世ははるかに不幸な人で満ち溢れているのだから。

しかし一方で他人に世話を焼くというのも、どこか気が引けてしまうのが人間というやつではないか。店の中で泣き叫んでいる子供、駅のプラットフォームの隅っこで蹲っている人、道端で酔っ払っているのか転がって微動だにしないおっさん、痴漢の被害にあっているかもしれない女性。私達はそういう困っているらしい人たちに助けたくても、助けられるだろうか。

所詮おせっかいなんじゃないか、とその時ふと心に杞憂がよぎる。で、だいたいの人はいざその現場に立ち会ったら、見て見ぬ振りを決め込むだろう。人間というのは本当に困ったもんで、いざ現場に遭遇すると妙な考えにCPUが働く。おせっかいを焼いて拒否されたりして恥をかくのが嫌だなとか、迷子の子供だと思って声をかけたら逆に誘拐魔に間違われたらどうしようとか、何故か計算高くなってしまうのだから困る。もちろん、恥をかこうが失敗しようが自分本位な考えを捨て、「しあわせになろうね」思考で迷わず対応するのが絶対正しいとは思う。しかし所詮は正しいと思ってもいざ実行できないのが人間というやつだ。

さっきから本作にちっとも触れず別の作品ばっかで恐縮だが、作家、O・ヘンリの短編にこんなものがある。パン屋で働くご婦人と、そのパン屋に毎日通う貧乏くさい画家らしき男のロマンスだ。凄く悲しくも私達に色んな教訓を齎してくれる。画家らしき男は、何故か売れ残りのカッチカチになったセールの古パンを買っていく。さぞや食うや食わずやなんだろうと画家を見かねたご婦人は、思わずカッチカチパンの間にバターをたっぷり塗りたくって渡すが……他人に良い事をしたつもりが裏目に出て、とんでもない厄災を引き起こすこともあるのだ。

『アイの歌声を聴かせて』の登場人物は、主人公のサトミをはじめどいつもこいつもヘンリの「カッチカチのパン」パターンの轍を踏んでいることに気が付かされる。良い事をしているつもりが裏目に出て、結果的に他人を不幸にしている。そうしたトラウマを抱えて傷ついて、一人孤独に燻っている。いい感じの選択肢だったはずが、実はバッドエンド直行の選択肢だったという難易度の高いエロゲのようだ。舞台はAIや労働用ロボットが一般的に普及している近未来なのだが、どれだけ技術が進歩したところで結局人間がアップデートしない限り同様の失敗を繰り返すのだろうなと思わせる。

結局、おせっかいなぞ焼かないほうがいいのだろうか。映画をみながらふとそんな虚無感に襲われた。確率論的に言えば、「何もしない」がずばり正解なのだろう。余計なことは何もせず、決断もせず、おとなしくしているのが良いに決まっているのだ。決まってはいるのだが……。

ポンコツAIシオンは一見するとかなり突拍子もない行動をとり、見ているこちらもヒヤヒヤどころか共感性羞恥を誘発して居たたまれなくなる。とにかく彼女はシオリを幸せにしたくて堪らないのだが、何故か人前で歌うわ踊るわで普通に考えりゃ見当違いも良いところだろう。尤もミュージカル映画的にはそれが正解なのだろうが、こりゃあまるで一時期流行ったファービーの歩くバージョン。ほんまにポンコツ失敗作良いところだわい、こんな恐ろしいもん世に放つなと感じる。が、進むにつれて奇妙なことにそれがクセになってくるのだから驚きだ。その理由はシオンの突拍子もない行動に慣れちゃった、というより実はそれが極めて「的確」かつ「正解」なのだったからと否が応でも判らされてしまうからだ。

人間サイドが間違えまくった挙げ句に絶望の袋小路に入っているのに、なにゆえAIのシオンは正しい道を歩めるのだろうか。それは彼女が何もあてずっぽうに歌っていたわけでもなく、彼女なりの理由があったからだ。現実の社会でも正しさを貫き通すのは難しい。彼女が持っていたのは信念というと大げさだが、「幸せにしたい」というそれだけの思いだった。

そういう種明かし的な意味でさらに言及すると、本作が「そもそも何故にミュージカル映画の体裁をとっているのか?」という映画の枠組みにまで話が及ぶ。よくよく考えるとミュージカル映画は数多ある映画の中でも不自然さというものを全面に売りにしているジャンルだ。「なんで登場人物が出し抜けに飛んだり跳ねたりするのに、誰も気にしないのだろう」という問いに対し「そういうものだから」「固有結界で守られているから」という理屈は通用しない。『アイの歌声を聴かせて』については、逆にミュージカルでなければ成立し得ない理屈付けがされており、SF版中学生日誌みたいな映画にちょっとしたメタフィクション的な深みを与えている。

シオン役の声優、土屋太鳳は本作で歌唱力を存分に発揮している。かつて声楽をやっていた私が保証するが、土屋はしっかり腹から声を出している点が非常に評価できるのだ。まともなヴォイストレーニングを受けていないと歌うときに喉から声を出してしまうものだ。そうすると高音になると鶏を絞め殺したような歌声になり聞き苦しい。が、土屋は常に腹が座った堂々たる歌い方をしており、高い音域に入っても自然にファルセットに切り替えるなどして心地良い。シオンの歌は本作でも中核をなす要素だが、そこに土屋太鳳の抜擢はまさしく正解としか言いようがない。




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