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西川あつしと赤松広隆代議士 vol.4

前回のあらすじ(まだお読みでない方はコチラ):親父のある一言がきっかけで、東京の下宿先から平日は毎日、学生秘書として赤松事務所に勤務することになった西川あつし青年。32年前の当時を振り返って、赤松代議士の思い出話を今回はインタビューしました。以下、本人寄稿です。
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とにかく当時は全てがアナログでした。携帯電話は勿論、ポケベルもなかったように思います。誰もが電話帳を持ち歩き、代議士の場合は名刺大の手帳に小さな手書きの文字でビッシリと支援者の方々の連絡先が書かれていました。手元が暗い所では「あつし、これ何番だ?
見てくれ」とよく言われたものです。

代議士が原稿を書く時は、必ず原稿用紙に愛用の万年筆を走らせておりました。ワープロが普及し始めても、パソコン全盛の今日でもそのスタイルは変わることなく、私も含め赤松事務所全体がITに疎い遠因ではないかとも思われます。(;^_^A

また当時は喫煙者をとりまく環境も至って寛容でありましたが、代議士の愛煙銘柄(フィリップモリスの赤)の入手環境だけは困難を極めました(※1)。

そして最も私が判断に迷ったのが電話の取りつぎです。よくあるケースが、
「俺は勇先生(※2)の大支援者だった者だ。地元に電話したら今日は東京だって言われた。広隆がおったら換わってくれ!」
みたいな電話です。
当然、当初は全て代議士に繋いでいましたが、さすがにある時
「あつし、父親の大支援者がこんなに大勢いたら落選なんかする訳ないだろ」と言われ、以降は極力自分が昔話の聞き役を務めさせて頂きました。

スタッフ注釈
※1 一般には市販しておらず、ストックが切れそうになると秘書が特注品としてお取り寄せの手配に走ったものです。うっかりストック切れになっても、直ぐには購入できないので神経を使いました。 
※2 赤松広隆代議士の父親が、赤松勇(いさむ)先生になります。勇先生は衆議院議員を11期務め、日本社会党副委員長を務めました。第34回衆議院議員総選挙にて落選。ちなみに、赤松広隆代議士の初当選は第39回ですから、5期の空白期間があり、それ相応の苦労があったことも発言の背景にあります。

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