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西川あつしと赤松広隆代議士 vol.3

皆さん、こんにちは。ありがたい事に、意外にもこのシリーズを楽しみにされる方々がいらっしゃるようで「筆が遅い!」と叱られてしまいました。
そもそも、昔話をブログに書き連ねようと試みたきっかけは、20歳の学生秘書から県議として52歳に至る今日まで、私自身の耳で聞いた自分しか知らない赤松代議士語録・逸話を後世に語り継ぎたいと思ったからでもあります。今回の第3話では、語るべき赤松代議士の人柄にまつわるエピソードをご紹介いたします。第2話(まだ読んでない方はコチラ)のサプライズ人事の続きはもう少々お待ち下さい!

さて、今は昔、JR東海が新幹線のぞみ号を初めて東京・大阪間で走行させる時のことです(※1)。ダイヤはまだ試験的に1日数本のみで、そのうち1本がいわゆる「名古屋とばし」で設定されたことにより、東海3県選出の国会議員が総出で猛反対を唱える事態となりました。当時、東京・大阪間の出張サラリーマンといえば羽田・伊丹の飛行機移動が主であり、「都心部間の移動時間で競えばJRだって負けはしない」と1分1秒を縮めるための苦肉の策が「名古屋とばし」だったのです。

憧れの最速列車が名古屋を素通りしては、地元を預かる国会議員としての面目丸つぶれ。いざ、「JR東海社長を吊し上げろ!」との国会内集会が開かれることとなり、お呼びでない横浜選出の議員までもが参加する中(※2)、ただ一人欠席したのが赤松代議士でありました。

代議士曰く、「民間企業(JR)が同じ民間企業(航空会社)に対抗するための経営努力に対して、国会議員が口を挟むものでない。場合によっては東京・博多ノンストップ便があったって構わないじゃないか。」とのことでした。

私は学生秘書の分際でありましたが、内心「地元飛ばしなんぞけしからん。徹底的に吊るし上げろ!」側だっただけに、自身の小ささを痛く恥じた瞬間でありました(※3)。(続く...)

(スタッフ注釈)
※1 当時、JR東海は運賃の値下げにより利用客を伸ばしていた航空機にどう対抗していくのか、という喫緊の課題を抱えており、その打開策として、それまでの「ひかり」よりも別格に速い時速270キロでの運行に対応した「のぞみ」列車が誕生しました。
※2 当時、名古屋だけでなく横浜も飛ばされることになりました
※3 結果として、「早朝の1本だけ」というJR東海側の説明が功を奏して地元側の理解は広がり、さらに路盤安定の技術の進歩によって1997年には「名古屋飛ばし」は廃止されました。

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