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感情の捉え方と、仕事的人間

働いていると、全てが資本主義経済に最適化されていくのを感じる。
それは自分または他人の身体、感情、言語全てが何かを実現するための道具として陳腐化されていく感覚に近い。働いている間、自分の感情を理解し、「コントロール」して、仕事を進めるというモードに入る。
会社のビルには様々な人が居る。自分の会社以外の誰か、ビルの管理の人、コンビニの店員さん、清掃の人など。仕事モードの自分には、自分の仕事に「関係のある人」しか目に入ってこない。意識の外にそれらの存在を追いやってしまうのだ。あまりに近くに居るのに、本当は関係あるのに、経済活動という一見大きく見えるだけの目的にそれらの存在はあまりに関係なく見えてしまう。だから、働く人々は清掃の人を無視する。そういう感覚がこの世界には広がっている。

当たり前っぽいけどその状態があまりに気味悪く、それが「当たり前」になるよう制御されていく自分の感情や意思も不気味だ。

距離的な繋がりに意味を見出さなくなることが奇妙なのか、あるいは意思のありかを見失う恐怖かも知れない。
近くの誰かを慮ること、遠くの誰かのために行動すること。だれがそれを「選ぶ」のだろうか?

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