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船川淳志は、なぜ「コンサルのコンサル」と名付けられたのか?


海老原: 船川さん、確か2年前のマンガで出された「ロジカル会話術」の帯だったと思いますが、「コンサルのコンサル」と書いてありましたよね。あれはどういうことですか?

船川: 出版社はいろいろキャッチを探しますからね。それこそ、前は「カリスマ講師」とか、「伝説のMBA講師」とかね。海老原さんみたいな方に突っ込まれましたよ。「伝説っていうことは、過去の方なんですね!?」って。(笑)
 それで、「コンサルのコンサル」っていうことですが、実際、外資系ファームも含めて数社で思考力やファシリテータースキルを教えてきましたし、あとは、グローバル対応というか、英語のファシリテーションを教えたこともありました。出版社にそんなことを話したら、あのキャッチになったのですよ。
ただ、これらは正確には講師でしょ。実は文字通り「コンサルタントのコンサルティング」は私のシリコンバレー時代に遡ります。

海老原: そういえば、船川さんのコンサルキャリアはシリコンバレーからでしたよね。普通、国内のファームに入ってキャリアを築く人が多いですけど、また、そのあたりも異色ですね!そもそも、どうしてコンサルになろうと思ったのですか?

アリコジャパン戦略立案担当から反対の立場へ

船川: それは、まさにいい質問です。東芝を3年目で飛び出して、自由度の高い外資系企業に行きたい!ということでAIGグループのアリコジャパン(現在のメットライフ)に入りました。7年いたのですが最後2年にかけて営業企画から経営企画の仕事をやりました。具体的にはアリコジャパンの戦略立案をするプロジェクトの事務局に任命されたのです。アリコだけではなくAIUやアメリカンホームなどのAIGグループカンパニーと合同で最終的にはAIGジャパン全体の戦略を考えるというやりがいのあるものでした。その時に、コンサルタントを使う立場を経験したのです。

海老原: なるほど、逆の立場を経験されていたのですね。

船川: 仰る通り、その「反対の立場」を経験したのは今でも良かったなあと思いますね。そしてその仕事を通じて、コンサルの仕事に興味を持ったのがきっかけです。同時に、2つの大きな問いが自分の中に出てきました。
一つは米国本社と日本側はどうしてこんなに話がかみ合わないのだろう? 日本市場もよくわからないのに、勝手に要求をつきつけるニューヨークから来たアメリカ人。それに対して、彼らに言いたいことも言えない、言わない日本人の管理職者のオジサンたち。30歳ぐらいの私がその様子を見ていたわけですよ。ナイーブだったのも手伝って、フラストレーションを感じていましたね。
もう一つは、立派な戦略を立てるのはいいけど、組織はそう簡単に動いていかない、それはなぜなんだろう?ということです。
そんなことから、MBAに行くことを決めたわけです。その時に、自分で東芝という日本企業も外資も経験したので、アメリカでアメリカのコンサルティング会社に入りたい!と思っていましたね。

シリコンバレーでのコンサルのコンサル案件

海老原:  なるほど、場所(日本とアメリカ)と資本の2軸で見たら、4象限の対角線上の2つを制覇したので、次!というわけですか(笑)。それで「シリコンバレーでの修行時代」が始まったのですね。

船川: 「4象限」は、結果そうなりますね。で、私が入ったクラーク・コンサルティング・グループは、今は存在していませんが、もともとスタンフォード大学の研究機関だったのです。文化人類学の博士課程にいたクラーク氏が中心になって当時、日本とアメリカの様々な企業提携のアドバイスをやっていたのが起源です。P&Gの明石プラントを作る際に大きな案件だったので、学外に出たコンサルファームとしてはじまった当時は、日米の組織開発の分野では良く知られていました。ここで鍛えられましたね。入社2、3か月でもおもしろいプロジェクトがありましたね。一人でロシア人50名とともにホテル缶詰になって、日本企業との提携をどうすすめるかのワークショップをやり、個別の相談にこたえる、というのもやりましたし、アメリカ国税局で、当時問題になっていた日本企業が系列を使った移転価格の問題の誤解をとくためのワークショップ、アメリカに進出した某日本自動車メーカーのR&D部門の組織風土をどうしたら「日本―米国」という二元論から脱却できるか、今で言えばまさにメタナショナルな組織にするか、という具合です。

 そんな中で、あるクライアント企業が戦略トップファームに日本市場での案件をすでに発注していたのですが、そのチームに入って妥当性を検証してほしい、というリクエストが指名できたのです。まさに「コンサルのコンサル」初体験です。この時は、緊張しながら参加したタスクフォースのキックオフミーティングはまざまざと覚えていますよ。なにしろ、クライアントの博士号を持ったリーダーと彼の仲間、戦略ファームからは3人、そして私はたった一人で駆け出しですよ。3か月後の最終プレゼンでは戦略ファームのバイスプレジデントの方と私がロスアンジェルスのクライアントオフィスでそれぞれ30分ずつもらって、きっちり付加価値は出しまたけれどね。

海老原: ちなみに今のお話はいつ頃ですか?

船川:  1992年の1月入社で、1995年の終わりまで、35歳から30代後半まで、そんなスリリングな経験をしていましたよ。

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実は、ちょうどこの2か月、「コンサルのコンサル」案件やりました。つまり、日本の大手企業がコンサルティングファームを使って組織変革を考えているけど、どうすればいいのか?実際に、数社のプレゼンにも立ち会いました。

海老原: プレゼンするコンサルタントも緊張したのじゃないですか!(笑)いずれにしても、本のキャッチャだけの話ではないことが、よーくわかりました。


(グローバルインパクト

代表パートナー:船川淳志

テクニカルパートナー&コンサルタント:海老原一司)

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