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旅の記:2023年7月のツアー㉑福井城(福井県福井市)

【旅の記:2023年7月のツアー㉑福井城】

福井城の前身となる北ノ庄城は柴田勝家が信長から越前49万石を与えられて築城したものだが、南北朝時代から砦のようなものが築かれ、後に朝倉氏が館のを建て、北庄朝倉家の拠点になっていたという。朝倉氏滅亡後、天正3年(1575年)柴田氏北ノ庄城が築城される。宣教師ルイス・フロイスがその美しさを褒めたたえるほどの城郭(天守は九重だったとか!)であったが、秀吉に攻められ、勝家夫妻と共に建造物のすべてが焼け落ちた。
その後、丹羽氏、堀氏、青木氏と越前に入封している。
慶長5年(1600年)徳川家康次男・結城秀康が関ケ原の戦いでの戦功により68万石で北ノ庄を拝領し、翌年から北ノ庄城跡地に築城に開始。慶長9年(1604年)に松平性を名乗ることを許されたこともあり、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成、4層5階の天守閣が建つ、ご家門の居城にふさわしい名城となった。2代藩主となった秀康の長男・忠長は関ケ原で戦功を上げるも、徳川秀忠にいやがらせ?を受けて、素行不良になり大分に配流とな。
福井という名前は秀康の次男で第3代藩主となった忠昌が「北」という文字が「敗北」にあたり不吉として「福居」とし、後に「福井」になったという。また北ノ庄城に「福の井」という井戸があり、その名にちなんだという説もあり。
代替わりにつき支藩の分配などで領地を減らし格式を下げられたりもしたが、その後回復する。しかし領地の減少、天災などで藩財政は厳しかった。
幕末、田安家から養子で入った慶永(春嶽)が14代藩主となり、橋本佐内や三岡八郎(由利公正)らを登用、熊本から横井小楠を招聘して藩政改革を行った。安政の大獄で謹慎処分を受けた慶永であったが、井伊直弼が暗殺されると政治総裁職に就任し、公武合体派として幕政改革にもあたった。戊辰戦争では明治新政府側につき、彰義隊討伐などに参戦した。
明治維新後は一時陸軍省管轄となるが、旧藩士たちが借り入れて開墾をすすめた。明治23年(1890年)松平茂昭が福井城跡を買い戻し、1893年(明治26年)松平康荘により農業試験場「松平試験場」が設立され、大正期まであった。現在は福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。

御本城橋から。城の外郭は売却され、現在は本丸の跡が残る。
結城秀康公の騎馬像と福井県庁
福井県警察本部。
本丸正面入り口にあった瓦御門
山里口御門。本丸西側を守る門。寛文9年(1668年)の大火で焼失、平成30年(2018年)再建。
山里口御門から続く御廊下橋。平成20年(2008年)再建。
天守台
「福の井」もありました。
天守は寛文9年(1668年)の大火で焼失。再建されることはなかった。




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