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旅の記:2023年8月のツアー㉟普門院(山形県米沢市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉟普門院】

普門院は仁寿3年(853年)英慶法印という僧が創建したとされ、伊達家の城下町だったころに現在の地にお寺が建てれた。その後火事で焼失し、寛政年間(1789‐1822年)に再建された。山号を岩上山とする真言宗智山派の寺院です。
寛政8年(1796年)羽黒堂(羽黒神社)で師・細井平洲を迎えた上杉治憲(鷹山)はここ普門院に案内し、休憩をとり旅の労を慰めたそうです。治憲は46歳、平洲は69歳であった。
細井平洲は尾張国知多郡(現・愛知県東海市)の出身の儒学者で、京都・長崎で学び宝暦元年(1751年)24歳の時に江戸で私塾を開き、武士だけでなく農民や町民にも学問を広め、多くの藩に迎えられたという。
宝暦14年(1764年)治憲の師となる。また安永9年(1780年)には尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂の学長になった。
米沢藩には3度下向していて、治憲が羽黒堂で平洲を迎えたのは3度目の下向の時だった。享和元年(1801年)に江戸尾張藩藩邸で死去。平洲の著である「嚶鳴館遺草」は吉田松陰や西郷隆盛も愛読したそうです。

羽黒神社から普門院への途中にある上杉治憲敬郊迎跡の碑。羽黒神社と普門院は昭和10年(1935年)「上杉治憲敬郊迎跡」として国の史跡に指定された。
敬師の像。当時お殿様が城を出てお客を迎えるというのは異例で、感激のあまり涙をこぼしながら、平洲と治憲は肩を並べて普門院へ入った。身分制度を越えた子弟の姿として江戸時代から知れ渡り、明治以降は道徳の教科書にも採用されたそうです。
茅葺の赤門
寛政3年(1791年)に再建されたという本堂は保存改修工事中でした。
平洲お手植えの椿
庫裏。本堂改修中のためご本尊・大日如来坐像など仏具はこちらに移されていました。中を案内していただき、平洲が休憩の際に使われた茶器など、貴重なものを見せていただきました。こちらの庫裏も寛政3年(1791年)に本堂と共に再建、平成に保存修理された。史跡に指定されています。


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