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旅の記:2023年4月のツアー㉝椎の木屋敷跡(愛知県刈谷市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉝椎の木屋敷跡】

刈谷城のすぐ近くには徳川家康の母・於大が三河の松平広忠と離縁して、阿久比の久松俊勝に嫁ぐまで暮らしとされる椎の木屋敷の跡地があります。

享禄元年(1528年)尾張国知多郡の豪族・水野忠政の娘として、忠政の居城緒川城で生まれる(養女という説も)。
忠政は三河国にも所領があり、三河国で勢力を強める松平氏との友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(1543年1月31日)に岡崎城にて竹千代(後の家康)を出産。同年父・忠政が亡くなると家督を兄の信元が継ぐ。水野氏・松平氏共に今川家に属していたが天文13年(1544年)信元は今川と対立する織田氏に付くことを決め、これによって今川氏との関係を慮った広忠により於大は離縁されてしまう。水野氏の居城刈谷城に帰された於大はここ椎の木屋敷で3年ほど暮らし、信元の意向で知多郡阿久比の城主・久松俊勝と再婚した。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いの、今川氏から自立した家康は織田氏と同盟。これにより俊勝と於大の間に生まれた3人の息子に松平性を与えて家臣とし、また於大を母として迎えた。
竹千代だったころに別れ、再会するまで於大は家康との音信は絶やすことがなかったという。久松俊勝は所領を前妻との息子・信俊に継がせ、戦功によって得た上之郷城も於大との子・康元に与え、自身は於大とともに岡崎城にすんだ。
天正3年(1575年)兄・信忠は信長に武田勝頼との内通を疑われて、家康に殺害(暗殺)されてしまう。刺客役を命じられた平岩親吉は信元を切った後「信元殿には私怨はないが、君命によりやむをえず刀を向け申した」と涙したという。案内役をしていた久松俊勝は責任を感じ、また家康の行動を恨み隠居していしまう。また久松家を継いだ信俊も、信長に謀反を疑われ自害し、所領は没収された。この事件で、於大は石川数正を深く恨んで、後の数正出奔の原因となったとする人もいるそうです。
於大は俊勝の死後、勝俊の菩提寺・安楽で落飾、伝通院と号した。羽柴秀吉に子の定勝が養子になる話が出たが強く反対して、家康にあきらめさせたり、慶長7年(1602)年6月には上洛して高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣で徳川氏の敵意がないことを示したりと、徳川家での存在は大きかったと思われます。
同年8月29日に伏見城で死去。75歳だった。遺骨は翌年江戸小石川傳通院に埋葬された。
松平性を名乗った於大と俊勝の子たちは、家康の異父弟としてそれぞれ江戸時代には大名に列した。


江戸時代は霊地とされて、一般のには出入りが禁じられていたそうです。









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