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旅の記:2023年9月のツアー⑭長宗我部元親墓(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑭長宗我部元親墓】

天文8年(1539年)長宗我部国親の嫡男として元親は土佐国岡豊城で生まれた。幼少の頃はおとなしく、ぼんやりしているところがあり「姫若子」と揶揄されるほどで、国親は跡継ぎとして悩んでいた。永禄3年(1560年)元親は数え年23歳と遅い初陣となった豪族・本山氏との戦い(長浜の戦い)で自ら槍を持って突撃するという猛勇さを見せ、この一戦で武勇を高め「鬼若子」と呼ばれた。続く潮江城の戦いでも戦火を上げ、同年に国親が急死すると家督を相続した。元親は一領具足を動員、また土佐国司の一条氏と共同しながら、周辺の豪族を支配下に置き、永禄11年(1568年)最後まで抵抗をしていた本山氏を降伏させ、土佐中部を平定した。この間の永禄6年(1563年)に美濃斎藤氏から正室を迎えている。力をつけた元親は一条家からの自立を目論み、一条氏と戦火を交える河野氏に戦勝祝いを送るなどしている。永禄12年(1569年)安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。天正2年には一条家の内紛に介入し、当主・兼定を追放して、その子・内政に娘を嫁がせ、傀儡を立てた。翌天正3年には伊予南部の諸将を率いて兼定が土佐に攻め込み一時は窮地に陥ったが、弟の吉良親貞の尽力もあり、四万十川の戦いで勝利、土佐一国を完全に統一した。さらに元親は伊予国や阿波国、讃岐国に進攻をはじめる。阿波・讃岐では三好氏が、伊予では河野氏などが激しく抵抗し、戦いが長引く中、天正8年(1580年)正室の姻戚関係から同盟を結んでいた織田信長は「四国は切り取り次第」という方針だったのに、状況が変わり元親の四国征服の動きをよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するように迫った。これを元親が断ったため、信長は三好康長・十河存保らの元親への反攻を助けた。さらに天正10年(1582年)5月には信長の3男・神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成され、それを知った元親に付いていた三好旧臣らの裏切りもあり、危機に陥った。この時、元親は斎藤利三に信長への恭順の意向を示す書状を送っている。同年6月2日に四国攻撃軍は渡海予定だったが、その日に本能寺の変が起こり信長が殺された。信孝は攻撃軍を解体、撤退したことで元親は危機を脱した。明智光秀は長宗我部との取次であったこと、光秀家臣の斎藤利三の娘が元親に嫁いでいることなどから、本能寺の変に長宗我部は無関係ではないという説がありますね。
さて、元親は信長の死による政治的混乱に乗じて、再び勢力拡大を図る。9月には勝瑞城に籠った宿敵・十河存保を破り阿波を平定し、天正11年(1583年ん)賤ケ岳の戦いでは柴田勝家と手を結び、羽柴秀吉に対抗した。秀吉は十河存保に援軍を送ったり、小西行長を派兵するが、元親はこれを撃退した。しかし、勝家は敗れたため、天正12年の小牧・長久手の戦いで、今度は織田信雄・徳川家康と結んで、秀吉の送りこんだ仙谷秀久の軍勢を破っている。また同時に伊予国での勢力も拡大していったが、信雄が秀吉と和睦してしまう。天正13年(1585年)春、秀吉は紀州征伐を終わらせると、元親に対し伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで収めようとしたが、秀吉は許さず弟・秀長を総大将として10万を超える群を派遣した。元親は阿波白地城を本拠に防備を固め抗戦するが、圧倒的な戦力の前に城を次々と落とされ、同年7月25日に降伏し、土佐一国のみを安堵されることとなった。元親は上洛して、秀吉に謁見、臣従を誓った。
天正14年(1586年)秀吉の九州征伐に嫡男・信親と従軍、しかし12月戸次川の戦いで島津軍の策にはまり敗走、信親は討ち死にした。天正16年(1588年)本拠地を大高坂城(高知城)へ移転し、家督を4男・盛親に譲った。天正18年(1590年)小田原征伐には水軍を率いて参加、北条氏の下田城を攻め、さら小田原城包囲に加わった。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも、軍役3000人で、水軍として期待された。慶長元年(1596年)秀吉のキリスト教迫害の引き金となったサン=フェリペ号事件が土佐で起きている。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去、政情が不安定になる中、元親は伏見屋敷にあり家康の訪問を受けている。その後、土佐に帰国した元親は体調を崩し、慶長4年(1599年)4月には病気療養のために再び上洛、秀頼に謁見している。同年5月、病状が悪化し、死期を悟った元親は盛親に遺言を残し、5月19日に死去した。享年61。
四国をほぼ手中に収めた英雄なれど、秀吉の兵の多さと物量にはさすがに勝てませんでしたね。また戸次川で信親が戦死してしまったことはそうとう応えたらしく、度量の大きさと英雄としての覇気を失い、家臣の意見にも耳を傾けなくなっていたそうです。
しかし、もし関ケ原の戦いまで生きていたとしたら、その後の長宗我部の運命も変わっていたかもしれませんね。。

長宗我部元親の墓

ここ高知県高知市長浜天甫山には天甫寺というお寺があって葬られたそうですが、お寺は廃寺になったということで、お墓だけ残る形になったのでしょうか。



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