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旅の記:2023年9月のツアー⑩土佐神社<土佐国一宮>(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑩土佐神社】

四国3県目は高知県。20年ぶり?!もっとかな。まずは土佐国一宮である土佐神社にご挨拶です。ご祭神は阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしかみ)です。阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)はオオクニヌシとタギリヒメの間の子で、土佐国造の祖神。一言主神は、古事記においては葛城山で鹿狩りをしていた第21代雄略天皇と出会い、獲物を争ったために天皇の怒りに触れて、土佐国に流された。天平宝字8年(764年)に神霊を葛城に戻す際に、和魂は土佐に止め置かれ祀られた。一言主神に関しては、古事記から日本書紀では扱いが丁重だけど、その後土佐に流されたり、役行者にこき使われたりと変化していきます。これは一言主神を祀る賀茂朝臣氏の地位が低下していったからと言われるそうです。いずれにせよ諸説あり!
創祀については不明だそうですが、古代に境内東北にある自然石を磐座として祭祀したのがはじまりとされる。賀茂氏の土佐進出に伴い、その祭祀権は在地豪族の都佐国造から賀茂氏に移ったとされる。
土佐神社が国史に記載されるのは「日本書紀」が初見で、天皇に「土佐大神」から献上品があったとし、朝廷への帰属を意味していると解されている。その後も「都佐坐神」「都佐坐神社」「土佐高賀茂大社」などいろいろな名称で呼ばれていたようです。
天文年間(1532‐1555年)に長宗我部国親に神職75人が降伏したと伝わり、この頃から長宗我部氏を支持する勢力になった。
戦国時代、永正6年(1509年)頃、長宗我部氏の居城であった豊岡城に本山氏が侵攻、一宮村は焼かれ、土佐神社社殿も本殿以外ほとんど焼失してしまった。永禄10年(1567年)長曾我部元親が再建に着手し、元亀年(1571年)に現在の本殿・幣殿・拝殿が完成した。
関ケ原の戦いにおいて、西軍に与した長宗我部盛親が改易、代わりに山内豊一が新たに土佐国20万6000石を与えられ入封した。山内氏も土佐神社を崇敬し、寛永8年(1631年)2代藩主忠義が楼門を、慶長2年(1649年)には鼓楼が造営された。
明治4年(1871年)に社名を「土佐神社」に改称した。
ご祭神に関しては様々な伝承があるようですが、賀茂氏とのつながりがあるのは確かなようですね。奈良葛城の一言主神社は、まだ行ったことがないので、お参りしたくなりました。

拝殿。重文。
幣殿。重文。
ご本殿。重文。拝殿・幣殿と共に永禄10年(1567年)建立。
厳島神社
禊岩
大楠
鼓楼。重文。慶長2年(1649年)建立。
楼門。重文。改修中でした。寛永8年(1631年)建立。




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