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旅の記:2023年4月のツアー㉜刈谷城(愛知県刈谷市)

【旅の記:2023年4月のツアー㉜刈谷城】

刈谷城(もとは刈屋城)天文2年(1533年)水野忠正が築城、緒川から本拠地を移した。
水野氏は清和源氏の流れを汲み、源光政を祖として7世孫の小河重房の時代に尾張知多に住み、その後雅経というひとの時代に知多郡小河で地頭職に任じられた。南北朝時代には、近隣の勢力と争いながら領土を拡大する。水野忠政の時代、緒川・刈谷両城を中心に知多半島を南下し佐治氏、戸田氏、吉良氏を圧迫した。この頃は今川家の傘下にあり、ともに傘下にあった松平氏とは頻繁に通婚しており忠政の娘で徳川家康の母・於大も松平宗家の松平広忠に輿入れしていた。
忠政が亡くなると次男の信元が継ぐが、信元は親今川から織田信秀との同盟(織水同盟)に路線変更。このため於大は松平広忠と離縁となり数年を刈谷城近くの椎の木屋敷で過ごすことになる。
桶狭間の戦いで信元は緒川城を守備、弟の信近は刈谷城において今川家臣・岡部元信に攻められて戦死している。永禄5年(1562年)信元は今川義元の討ち死にで自立を目指す徳川家康と信長の間を繋いで清州同盟を仲介した。その後も三方ヶ原の戦いや長島一向一揆の戦いなのでに参陣していたが、天正3年(1575年)信忠は信長に武田勝頼との内通を疑われて、家康に殺害(暗殺)されてしまう。刺客役を命じられた平岩親吉は信元を切った後「信元殿には私怨はないが、君命によりやむをえず刀を向け申した」と涙したという。案内役をしていた久松俊勝は責任を感じ、また家康の行動を恨み出奔していしまう。
これにより水野領には佐久間信盛が入る(このため信元の内通疑惑は信盛の讒言とも言われる)が、信盛は信長に追放され、信元が冤罪だったとして、緒川城に水野忠守(忠政・四男)、刈谷城に水野忠重(忠政9男)が入って旧領に復した。水野家当主となった忠重は信長の長男・信忠の家臣となり家康の高天神城攻めに目付か軍艦で加わったり、甲州征伐に従軍したりしている。
天正10年(1582年)本能寺の変の際は信忠に従っていたとされるが、難を逃れて刈谷に戻った。これ以降しばらくは織田信雄に仕え、家康の要請を受けて天正壬午の乱に出陣したり、長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の先手を務めてもいる。この頃、息子の勝成を追放し、勝成は諸国放浪をはじめる。
信雄が秀吉と講和した後は、秀吉に仕え、一時期伊勢国神戸に転封になるも、すぐに刈谷に戻る。秀吉の死後、家康に仕え、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは和解して戻ってきた勝成が会津征伐に従軍し、忠重は三河国に留まった。三河国池鯉鮒にて浜松から越前の新領へと帰る堀尾吉晴を歓迎して、祝宴を開いたが、同席した加賀井重望と口論になって殺害されてしまった。加賀井はその場で堀尾吉晴に討ち取られている。墓は楞厳寺と福山の賢忠寺
忠重の跡を継いだ長男・勝成が刈谷城に入る。勝成は大阪の陣で大きな軍功をあげ備後福山藩10万石の大名となった。勝成の後、異母弟の忠清が入り、その後信濃松本7万石に加増移封。水野家の後は松平家、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏と頻繁に城主の交代があったが、永享4年(1747年)に土井氏が入封して9代の支配後、明治4年(1871年)に廃藩を迎え、城は破却された。
昭和11年(1936年)公園として整備されたが、戦時中には高射砲陣地が置かれ、老松は切り払われて荒廃する。戦後徐々に整備されて、現在は桜の名所になっているという。刈谷城は別名「亀城」と呼ばれたそうで、公園名は「亀城公園」になっている。

水野氏からはいくつもの家が生まれ、大名、旗本になり、幕府の重役に就くこともあったが、刃傷沙汰での改易や減封も多いみたいで、勝成がそうだったように、血の気の多い家計なのでしょうか。

水野忠政の四男忠守の息子忠元を祖とする家からは享保の改革で徳川吉宗を補佐した水野忠之や天保の改革を主導した水野忠邦など、有名な老中を輩出している。

石垣や城門などを復元する計画があるそうです。
松本奎堂は刈谷生まれで、幕末大和国で挙兵した天誅組の三総裁のひとり。
「君がため 命死にきと世の人に 語りつきてよ 峯の松風」
子供のころから神童と言われ藩から選ばれて昌平坂学問所に学ぶ。
当時の藩主は土井氏であり譜代大名であったが奎堂は早くから勤皇に目覚め、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しくなった。文久3年(1863年)天誅組挙兵直後に八月十八日の政変が起こり、孤立。転戦するが奈良県東吉野村にて紀州・彦根藩兵によって壊滅させられた。失明していた松本は一行からはぐれ捕縛される。銃殺、または自刃とも。享年33。











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