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旅の記:2023年7月のツアー㉘金前寺(福井県敦賀市)

【2023年7月のツアー㉘金前寺】

金ケ崎城の入り口あります金前寺は山号を誓法山、ご本尊は十一面観音とする高野山真言宗の寺院です。
736年(天平8年)に聖武天皇の勅願により泰澄が開山。天皇から下賜された金光明経を金櫃に封じて山に埋め、それにちなんで山を金ケ崎、お寺を金前寺とした。寺伝では、金光を発する十一面観音から金前の名がとられたとも。往時は気比神社の奥之院として、多くの伽藍を有し、ご本尊・袴描観音は縁結びのご利益で広く知られていた。
延元2年(1337年)南北朝時代の金ケ崎の戦い、また戦国時代の1570年金ケ崎の戦いにおいて兵火により灰燼に帰した。ご本尊は焼失を免れて、寛文2年(1662年)に観音堂を建て再興するも、昭和20年(1945年)7月12日夜、空爆により堂宇・寺宝の一切を焼失した。

ご本堂。
昭和21年(1946年)に再建された。金前寺末寺であった気比蔵寺の本尊で、戦時中に美浜町の園林寺に疎開していた十一面観音立像をご本尊として迎えた。幾度かの修復増築工事の後、平成元年(1989年)に現在の本堂と庫裏が完成した。平成27年(2015年)戦前の写真をもとにご本尊袴描観音を復元。

袴掛観音の由来:
昔、敦賀に住む一人娘のその父母が住んでいた。娘は何度か音緒を迎えるが、いずれも離縁となってしまった。両親は家の裏にお堂を建てて、観音を安置、娘を守ってくれるよう祈った。そのうちに父母は亡くなり、娘は困窮、観音様に助けを求めると夢の中に僧が現れ「夫を見つけてやろう。明日ここに来る。その人の言うことに従え」と告げた。
翌日、若狭へ向かうという70~80人の一行がやってきて、家を宿として貸してほしいという。一行の主人は30前後の好男子で、美濃の豪族のひとり息子で、前妻を亡くし、再婚話も断り、独り身でいた。男は娘を見て、妻と生き写しだと驚いた。
翌日、主人と一行は20人ばかりを残して若狭へ向かった。娘は提供する食べ物もなく困っていると、以前この家で働いていたものの娘だという女が現れ、わけを話すと、食べ物や、馬の草を運んできてくれた。翌日、一行と共に戻った主人は娘を美濃に連れて帰ると告げた。娘は助けてくれた女にお礼として紅の絹の袴を与えた。翌朝、出立の前に観音様にお祈りをすると、策や女に与えた袴が観音様の方にかかっているのを見て、あの女は観音様が変じて助けてくれたのだと悟り、涙した。美濃に戻って、幸せに暮らす二人はしばしば敦賀に戻り観音様のお世話をしたという。

まさに縁結びの観音様ですね!

芭蕉の句碑(鐘塚)。芭蕉没後68年目に建立されたそうで、福井県内だけでなく日本海側で一番古い芭蕉句碑だそうです。『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた芭蕉が、戦いに敗れた新田義顕が陣鐘を海に沈めたという故事を宿の主に聞いてあ「月いずこ 金は沈るうみのそこ」と詠んだ。鐘は逆さに沈み、海から引き揚げられなかったという。
弘仁2年(811年)に弘法大師空海が滞在したことがあるそうです。

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