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旅の記:2023年9月のツアー〘52〙實成寺<和気氏氏寺>(岡山県和気郡和気町)

【旅の記:2023年9月のツアー〘52〙實成寺】

東京に帰る高速に乗る前に和気町へ。和気といえば、宇佐八幡宮神託事件で有名な和気清麻呂ですね。
ここ実成寺の地には、もとは藤野寺という和気氏の氏寺であったが、源平合戦以降の度重なる兵火により元和年間(1615~1623年)には衰退し、わずかな建物しか残っていなかった。その遺構に日妙上人が日蓮宗福昌寺を建てるが、寛文6年(1666年)に岡山藩主池田光政が寺社の大整理を実施した際に日蓮宗不受不施派に属する福昌寺は廃寺となった。この時、僧乗仙は決定を不服として焼身自殺(火定)をしたそうです。その後、福昌寺の復興は成らなかったが、元禄3年(1690年)津高野々口にあった實成寺を現在の地に移すことが許され、日蓮宗福昌山實成寺として再興された。

ご本堂
本堂の中も入れていただきました。
和気清麻呂顕彰碑。天保十年(1839年)に地元の名主で国学者であった万波南峰が建てたそうです。

ここ備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれた和気清麻呂は奈良時代末期から平安時代初期にかけての官僚貴族。神護景雲3年(769年)宇佐八幡宮の神官を兼ねる大宰府の主神・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげ の あそまろ)が宇佐八幡宮の信託として、称徳天皇の寵愛する道教が皇位につけば世は天下泰平となると上奏した。道鏡が仕組んだとも、称徳天皇が望んだとも、、いろいろな説があります。
称徳天皇は信託の確認のために、側近であった和気広虫を宇佐八幡へ送ろうとしたが、虚弱体質であったため長旅は耐えられない、ということで代わりに弟の清麻呂に命じた。道鏡からは吉報をもたらせば官位を上げる、ともちかけられたという。しかし、皇族でない道鏡が天皇になるのはとんでもない!と確信している清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を得たとして、大和に帰り奏上した。
称徳天皇はこれを聞いて激怒、清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流、姉の広虫は「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて、処罰を受けた。子供のような仕打ち!これにより道教が天皇になることはなかった。世にいう宇佐八幡宮神託事件です。神護景雲4年(770年)8月、称徳天皇が崩御すると道鏡は失脚、下野国の薬師寺に左遷され、9月には清麻呂が大隅国から呼びもどされて従五位下に復位して官界に復帰、さらに美作備前両国の国造に任命され、両国で治水などの実績を残した。
天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、従四位下に叙せられ重用される。その後も出世していき、摂津大夫の時には神崎川と淀川を直結される工事を行い、平安京方面への物流を確保した。大阪天王寺区の茶臼山にある池は治水工事の名残りとされ「和気橋」という名の橋が架かっている。延暦12年(793年)遷都10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りをつけるように進言、山城国葛野郡を選び、自ら造営大夫として平安京への遷都に尽力した。延暦15年(796年)には従三位に叙せられ、公卿の地位まで昇った。
延暦18年(799年)薨去。享年67。即日正三位の位階が贈られた。神託事件が有名ですが、とても仕事のできる方だったようですね。

和気氏経塚。これは卿塚とされ、和気清麻呂卿の塚で、清麻呂の墓という説もあるそうです。




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