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旅の記:2023年7月のツアー㉗金ケ崎城・金崎宮(福井県敦賀市)

【旅の記:2023年7月のツアー㉗金ケ崎城・金崎宮】

敦賀に移動しましてライブの前に歴史探訪。まずはあの金ケ崎城へ。

永禄13年(1570年)越前朝倉領に進攻した織田・徳川軍は両軍合わせて3万で4月25日に戦闘がはじまると翌日には朝倉景恒が守る金ケ崎城を落とし、織田方が優位に合戦を進ていた。しかし、信長の義弟である北近江の浅井長政が裏切ったという報が入る。信長は最初「そんなはずはない!」と信じなかったが、事実だと知ると即座に撤退を決断、自ら志願したとも信長の指示だったとも言われれますが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を殿として金ケ崎城にいれ、朽木を越えて京へ逃げ延びた。長政の妻で信長の妹・お市が両端を縛った袋に小豆を入れて陣中見舞いとして送り届け、信長軍の窮地を伝えたという逸話もありますね。いわゆる「金ケ崎の退き口」の金ケ崎城です。
秀吉がさらなる出世をつかむきっかけとなった命がけの殿戦、殿軍には池田勝正や明智光秀など上司もおり、大将だったかどうかは疑問だそうですが、とにかくその役目を全うしたのでした。徳川家康もこの殿軍に加わっていたという説もあり、信長・秀吉・家康にとって大きな事件であり、戦国時代もの小説・ドラマでも頻出の場所ですね。

金ケ崎城は、もともと治承・寿永の乱(源平合戦)の時に平通盛が木曽義仲との戦いのために築いた城とされます。戦国時代よりも以前、南北朝時代にも重要な戦いがここで行われました。延元元年/建武3年(1336年)に後醍醐天皇が和睦を決めた足利尊氏が入京、新田義貞が後醍醐天皇第一皇子・尊良親王と後醍醐天皇と寵姫阿野廉子の子・恒良親王を奉じて北陸へ落ち、当城に入城した。しかしすぐに足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され、兵糧攻めにあう。延元2年/建武4年(1337年)義貞は闇夜に紛れ密かに脱出を図り、体勢をたてなおしてから金ケ崎城の救出に向かうが足利方に阻止されてしまい、攻め込まれた金ケ崎城内では、飢餓と疲労で疲れ切った城兵が討ち取られていった。尊良親王、義貞嫡男・義顕、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、落城した。一時勢いを取り戻した義貞が奪還しますが、足利方が越前を平定すると、越前守護代甲斐氏の一族が守備することとなった。
北陸と京を結ぶ重要地点だということがよくわかりますね。

いざ!
金崎宮鳥居
明治23年(1890年)尊良親王を主祭神として金ケ崎城址に創建、明治25年(1892年)に恒良親王が合祀された。明治26年(1893年)に現在の地に社殿を造営し遷座。御匣殿(みくしげどの)との恋愛物語が有名な尊良親王にちなみ「恋の宮」という別名があるそうです。
見込地ですが。。
尊良親王御墓所
南北朝時代のほうの「金ケ崎の戦い」の古戦場碑
金ケ崎最高地(海抜86m)は月見埼といい通称月見御殿と呼ばれ、武将たちがここから月見をしたと伝わる。
よき眺めでした。
三の木戸/二の木戸跡、焼米石出土跡などがあります。
今回は行けませんでしたが、金ケ崎城の枝城である天筒山城が稜線伝いにつながってあります。

何度も何度も本で読み、ドラマで見てきた場所に来れて感動でした!

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