見出し画像

旅の記:2023年8月のツアー㉗法泉寺(山形県米沢市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉗法泉寺】

上杉景勝を支えた重臣・直江兼続が元和4年(1618年)に創建した臨済宗の寺院。当初は禅林寺という名前だったそうです。
兼続は足利学校で学ばせいていた九山禅師を呼び寄せて、文書を集め「禅林文庫」という学問所を開設します。収集された蔵書は後に上杉鷹山が開設した興譲館へと受け継がれ、現在でも市立米沢図書館などに伝わって、貴重な文化財となっているそうです。
元禄三年(1690年)に2代米沢藩主・上杉定勝の三女・亀姫の法名(法泉院殿)をとり、寺名を法泉寺に改称しました。

本堂の向かい、道を挟んで法泉寺庭園があります。定勝の命で九山禅師が京都の天龍寺庭園を模して作庭したということです。江戸中期には絵師としても有名だったという米沢藩士・小田切寒松軒によって改修。上杉記念館庭園、林泉寺庭園とともに米沢三名園の一つになっています。

昭和初期に本堂と庭園の間に道路を通した影響で水が枯れてしまったそうです。。
文殊堂。慶安元年(1648年)に創建。寛政元年。大正6年の火災で焼失、現在のものは昭和5年に再建。
右から5代藩主吉憲の側室で6代宗憲、7代宗房、8代重定の生母・祥寿院、2代藩主定勝の三女・亀姫、同四女・三姫のお墓。

定勝の四女・三姫は忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央の妻(嫁いだ後に富子)で米沢藩4代藩主となった綱憲の母です。三姫の墓からは白髪の入った壺が見つかり、上野介のものといわれているそうです。(三姫が埋葬されたのは東京は広尾の東北寺とされる)上野介と三姫は不仲だったという説もあるようですが、、
赤穂浪士討ち入りに参加しなかった赤穂藩士・大野九朗兵得衛は、大石内蔵助が討ち入りに失敗したら、妻の実家である米沢藩に逃げ込むだろうと吉良を福島と米沢の間にある板谷峠で待ち伏せ。討ち入りの成功を知ると、歓喜してその場で自害した、という伝説?的な逸話があるそうです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?