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旅の記:2023年8月のツアー⑦鹽竈神社<陸奥国一宮>・志波彦神社(宮城県塩竃市)

【旅の記:2023年8月のツアー⑦志波彦神社・鹽竈神社】

前々から気になっていた鹽竈神社へ。なぜ気になってたかって?お名前が「しおがま」ってね、珍しいなと思いまして。鹽竈が正しいようですが、塩竃とされることもあるそうです。
「塩」って感じが入っている通り主祭神である塩土老翁神(しおつちのおじ)は製塩の神様で、人々に塩のつくり方を教えた神とされます。また記紀にも登場し、海幸山幸の説話において、ホデリお兄ちゃんの釣り針を失くして途方に暮れるオホリに海神に会いに行くように勧めたり、神武天皇に「東に良い土地がある」と告げたりしています。猿田彦のように道案内の神様とされ、タケミカヅチとフツヌシを先導して東北平定を助けたと言われ、塩土老翁神が当地にとどまったことがはじまりとされる。
しかし創建の時期ははっきりとはしないものの、古くから朝廷に重要な神社とされかなり多くの祭祀料を受けてきたが、延喜式神名帳に記載がないことが謎とされている。
奥州藤原氏が陸奥押領使に任じられると、その支配下に入り崇敬を受けた。藤原氏滅亡後は鎌倉幕府からも重要視され、伊沢家景が陸奥留守職に任じられ(伊沢氏は「留守」性を名乗ることに)、当社を管理した。
南北朝時代、多賀国府の影響力が弱まると留守氏は行政権を失うが、室町幕府から奥州管領として派遣された斯波氏や吉良氏など武士からも寄進を受けるなど大切にされた。
仙台藩伊達家初代藩主政宗が慶長12年(1607年)に社殿を造営、2代藩主忠宗、3代藩主綱宗も社殿の造営・修造を行っている。
4代藩主綱村は特に厚い集計を寄せ、塩竃の租税を免状するなど手厚く遇した。貞享4年(1687年)には吉田家に依頼して、当社に正一位が昇叙されている。さらに鹽竈社演技を編纂させ、諸説あった祭神を確定させた。現在の社殿は綱村の時代に造営計画を立てて着手し、9年後5代藩主吉村の時代、宝永元年(1704年)に竣工したもの。

駐車場から
東参道から
4代藩主綱村顕彰碑
隋神門
隋神門から見る表参道。
唐門
唐門を入ると正面に左宮に武甕槌神(たけみかづち)・右宮に経津主神(ふつぬし)を祀る左右宮の拝殿。向かって左が右宮、右が左宮。
奥に右宮・左宮本殿
そして唐門から入って右手に塩土老翁神(しおつちのおじ)が祀られる別宮本殿。この配置も塩釜神社の謎とされています。なぜ主祭神が正面でないのか、、これは伊達家の守護神である鹿島(タケミカヅチ)・香取(フツヌシ)の両柱を仙台城の方向に向け城から遥拝できるように配し、シオツノチノオジには海に背を向け、海上守護を担っていただくようにしたと言われている、が真相は分からいところもあるようです。ちなみに別宮の「別」は特別という意味だそうです。

そして同境内にある志波彦神社へ。ご祭神の志波彦神はこの地方で信仰されていた国津神(土着神)とされ、タケミカヅチの東北平定を助けたともいわれますが、諸説ありはっきりとしないそうです。
中世までの所在地は不明だが、交通の要所であった宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸にあったのではないかとされる。
朝廷からも崇敬を受けていた記載などが見られるが、中世以降は衰退して、天正年間に火災で神具・演技などを失い、延宝3年(1675年)再建の際には岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀された。
明治時代に入ると八坂神社に旧社殿を残したまま、鹽竈神社別宮本殿に遷宮、その後昭和9年(1934年)から昭和13年(1938年)にかけて境内に新しい社殿を造営した。

神門
拝殿

多賀城が朝廷東北支配の拠点であったように、鹽竈神社は神々たちの奥羽進出の最前線だったのかな、と妄想してしまいます。
記紀の国生みには含まれなかった東北地方に、鹿取神宮からタケミカヅチを押し立てて勢力を伸ばしていく過程が見れて興味深いです。



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