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旅の記:2023年4月のツアー⑳和歌山城(和歌山県和歌山市)
【旅の記:2023年4月のツアー⑳和歌山】
和歌山に到着。さっそく和歌山城へ。この辺りは雑賀衆が自治を行い、自分たちで海運・漁業・農業にたずさわりながら、鉄砲などの武器を使いこなして自衛していた。
天正13年(1585年)秀吉による紀州征伐により平定されると、副将軍として参陣していた豊臣秀長が治めるところとなり、秀吉の命令により「若山」と呼ばれていたこの地に築城をはじめる。普請役に藤堂高虎を任じて1年で完成させた。1586年桑山重春に3万石を与え城代として据えた。
関ケ原の戦いでは桑名氏は東軍に与したため紀伊和歌山2万石を与えられるが大和新庄藩に転封、浅野幸長が37万石で紀州藩となり入城、引き続き城の改修を行う。天守を建て、第2代藩主長晟が土塁を石垣にした。
元和5年(1619年)、浅野氏が広島藩に加増転封となると、代わっ徳川家康の十男頼宣が55万石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍秀忠より銀5千貫を受領して元和7年(1621年)に城の改修と城下町の拡張を始めて、繁栄の基礎を築いた。家康にも愛され、かつ厳しく育てられた頼宣は戦国的気質を残していて、幕府からも時に煙たい存在だったようで、4代将軍家綱の時代には一族長老としてブイブイ言わせていたとか。慶安4年(1651年)由井正雪による慶安の変では、正雪が頼宣の偽書を持っていたために関与を疑われ、10年紀州へ帰国できなかった。帰国を許されると、さらに城の改修をすすめ、幕府は謀反を疑ったという。。なかなかのヤカラ感!
城内建物は天守も含め幾度も火災に見舞われるが、再建された。特に天守の再建は武家諸法度で禁じられていたが、御三家ということで特別に許可された。明治の廃城令を生き延びた天守など11棟の建物が昭和に国宝に指定されるが戦時中の和歌山大空襲ですべて焼失した。昭和33年に天守群が鉄筋コンクリートで再建された。
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他にも御橋廊下や庭園など見どころがあります!すべては行けず。。とても立派なお城でございました。
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