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旅の記:2023年7月のツアー①甲斐善光寺(山梨県甲府市)

【旅の記:2023年7月のツアー①甲斐善光寺】

2023年7月のツアーは中部地方へ。まずは山梨県甲府にあります甲斐善光寺。山号を定額山とする浄土宗の寺院です。善光寺と言えば長野ですが、こちらは武田信玄が川中島の合戦で信濃善光寺が戦火で焼失することを恐れて、ご本尊善光寺如来像や諸仏寺宝類を移して安置したことにはじまります。

武田氏と上杉氏の戦いである川中島の戦いで、上杉謙信は信濃善光寺を本陣としたこともあり、荒廃していた。弘治3年(1557年)、信濃善光寺北西部を勢力下にした信玄は、善光寺別当であり武田側についていた粟田寛久にご本尊阿弥陀如来像や寺宝をいったん佐久に移し、その後永禄元年(1558年)に甲斐甲府に運んで甲斐善光寺を創建、粟田氏も転居した。(謙信が善光寺を保護し、本尊・寺宝を越後国に移し、上杉氏米沢転封によって現在は法音寺(米沢市)にあるという説もあり)社殿の造営は長期にわたり、如来像は仮堂に納められ、永禄8年(1565年)に本堂が完成すると、入仏供養が行われ、安置された。天正10年(1582年)に織田信長・徳川家康連合軍に攻め込まれ武田勝頼は滅亡。多くの武田家臣が処刑されたが、甲斐善光寺でも勝頼異母弟の葛山信貞や、勝頼を裏切り信長に下るがその不忠を信長に咎められた小山田信茂などが処刑された。
その後善光寺如来は織田信忠によって岐阜へ、本能寺の変後は織田信雄によって清州へ、さらに天正11年(1583年)には徳川家康によって浜松へと旅を続け、再び甲斐善光寺に戻されたそうです。
文禄5年(1596年)の慶長伏見自身の時には京都方広寺の大仏が損壊したので、秀吉は大仏の代わりとして善光寺如来を運ばせて大仏殿に安置した。すると秀吉は病になり、如来さまの祟りではないかという噂が立ったために慶長3年(1598年)に甲斐、、ではなく信濃善光寺に戻されたそうです。なので現在のご本尊は前立像であった銅造阿弥陀三尊像(重文)であるそうです。
江戸時代には徳川氏の庇護をうける。宝永3年(1706年)には甲府藩主柳沢氏の家臣であった荻生徂徠が訪れ、秘仏である灯籠仏(高さ5cmほどの一光三尊阿弥陀如来像)を実見したとか。

寛政8年再建の山門(重文)
こちらも完成8年に再建された金堂(重文)完成までに30年かかっており、遅延する工事を「善光寺普請」とい言うようになったとか。。宝暦4年(1754年)の火災で焼失した本堂は縦横50m×23m高さ23mと信濃善光寺と同じくらいの大きさだったが、再建されたものは縦横38m×23m高さ26mと全体的には規模が小さくなった。それでも東日本最大級の木造建築である。
なかなかの
迫力!

文禄年間に当地を納めた浅野長政が甲府の光増寺、韮崎の大仏堂から移したと伝わる木像阿弥陀如来三尊2組など、ご本尊他多くの文化財があります。




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