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旅の記:2023年7月のツアー⑦岩松院・福島正則霊廟(長野県上高井郡)

【旅の記:2023年7月のツアー⑦岩松院】

栗やワインで有名な長野県は小布施にある岩松院へ。山号は梅洞山、本尊を釈迦如来、文明4年(1472年)の創建とされる曹洞宗の寺院です。
こちらには北斎晩年の作品の中で最大とされる「八方睨み鳳凰図」が本堂の天井にあります。どこから見ても鳳凰と視線が合うということで、試してみましたが、確かに!そしてその大きさに圧倒されます。83歳にはじめて小布施に来て計4回訪れ、4回目の時に88歳から89歳までの一年滞在して描き上げたそうです。その歳でこんな大きな作品を描くこともさりながら、小布施まで歩いてくるのがすごい!

山門。仁王像は明治初期の廃仏毀釈の際に戸隠顕光寺(戸隠神社)から譲り受けたとか。
本堂
八方睨み鳳凰図!といっても前日に行った長野県立美術館での「葛飾北斎と3つの信濃」展にて撮影OKだったレプリカです。比べるものがないのでわかりにくいですが、かなり大きいです!
裏庭は
俳人・小林一茶が「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」と病弱だった初児を想って句を詠んだという「蛙合戦の沼」があります。
裏手には福島正則霊廟

福島正則は秀吉子飼いの武将として若いころから数々の戦功を上げ、賤ケ岳七本槍のひとりとして名を馳せた。秀吉亡き後は、文官である石田三成らと対立、家康の会津征伐に従軍した際に、三成挙兵の報をうけて開かれた世にいう「小山評定」で誰よりも早く家康へ味方することを宣言し、動揺する諸大名を反転西上へと決意させた。関ケ原の戦いでも活躍し、戦後広島藩49万8000石を得た。しかし豊臣秀頼のことは常に気にかけていており、主筋として立てることを忘れなかった。大阪の陣では秀頼からの加勢要請は断ったものの、幕府から従軍は許されず、江戸留守居役を命じられ、嫡男・忠勝が参戦した。なお一族には豊臣軍に加わったものもいた。
元和5年(1619年)、家康が亡くなってまもないころに、台風による被害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸・石垣を無断修繕したとして、武家諸法度違反により信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石へと減転封を命じられた。修繕の届け出は出していはいたが、幕府の正式な許可が出る前だったこと、修繕部分を破却するという条件に対し、一部しか破却しなかったことなどが原因とされますが、、言いがかりに近いものもあり、何か裏があるような気がしてしまいますね。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居出家して高斎と号した。元和6年(1620年)忠勝早世のため2万5000石を幕府へ返上。寛永元年(1624年)に死去。享年64歳。幕府の検死役が到着する前に(予定より遅れて到着したという)正則の遺体を荼毘に付したとして残り2万石も没収、福島家は取り潰された。

前日に立ち寄った長野県高山村、福島正則屋敷跡とされる高井寺
同じく高山村にある福島正則荼毘所跡。

高井野では5年間しか過ごさなかった正則だが、新田開発や治水工事などの功績を残し、領民からも慕われていたそうです。
幕府は正則の子・正利に旧領から3,112石を与え旗本とした。一度は断絶するもの、福島忠勝の孫・正勝が再興、代々御所院番を務めた。

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