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旅の記:2023年9月のツアー④一宮神社(徳島県一宮町)
【旅の記:2023年9月のツアー④一宮神社】
徳島市西部一宮町に鎮座するのは一宮神社。大気都比売神(おおげつひめのかみ)と天石門別八倉比売命をご祭神とする神社です。「古事記」において、高天原を追放されたスサノオが大気都比売神に食べ物をくれというと、様々な食物を提供した。不審に思ったスサノオが食事を用意しているところを覗くと、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出して調理していた。それを見てキレたスサノオは怒りのあまり大気都比売神を殺してしまうが、その頭から蚕が埋めれ、目からは稲、耳からは粟、鼻からは大豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれたという!という逸話で有名ですね。「日本書紀」ではツクヨミとウケモチの話になっています。
殺害された死者の身体から栽培植物が生まれる逸話というのは世界的にも広い範囲である話だそうですね。
もう一柱、天石門別八倉比売命はアマテラス?など諸説あるようです。
名前が示すように阿波国一宮論社です。もともとは上一宮大粟神社が一宮だったが、参拝が不便のため平安時代後期に遷座したと伝わるそうです。ここに来る前にお参りした大麻比古神社も一宮を称しており、隆盛を誇った細川氏の居館に近かったために、一宮神社から一宮の地位を新しく得たのではないか?ということです。
戦国時代、隣に一宮城という城があり、天正13年(1585年)羽柴秀吉の四国攻めにおいて長宗我部軍が守備兵を配したことで激戦地となり、当社も含め一帯が焼け野原になった。その後阿波に入った蜂須賀家3代藩主光隆が復興した。
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南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338年)に一宮宗成を滅ぼして阿波国守護小笠原長房の長男・長宗が城郭を築いたといいう。南北朝時代、長房の息子・一宮成宗は南朝方についたが、北朝方である細川氏の切り崩しにあい、南朝:正平17年、北朝:貞治元年(1362年)に和睦を結び、成宗は息子・成行に家督を譲り、成行は細川家の被官となった。一宮氏は三好氏が実権を握ると宴席関係を結ぶなどして重きをなしたが、三好家が分裂状態になり孤立した一宮成祐は長宗我部元親と誼を通じた。元親が阿波に進攻した際には土佐勢として活躍したが、元親に裏切りを疑われた成助はだまし討ちにされてしまった。
一宮城には長宗我部の守備兵が配置され、天正13年(1585年)、羽柴秀吉軍四国攻めの主戦場の一つとなった。羽柴秀長率いる4万の兵に囲まれ、城兵1万でよく戦ったが、最後は開場した。同年に蜂須賀家政が阿波国を与えられて一宮城を居城とし大幅改修した。
天正14年(1586年)家政は徳島城を築き、そちらに移ると城代が置かれたが、一国一城令により廃城となったという。
今回は時間もあまりなく登城チャレンジは控えました。。なかなか大変そうだったので。
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