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旅の記:2023年9月のツアー㉖大山祇神社<伊予国一宮>(愛媛県今治市)

【旅の記:2023年9月のツアー㉖大山祇神社】

四国4県でのライブを終えて、山陰へ、、の前にしまなみ海道を途中で降りまして、瀬戸内海は大三島に鎮座します大山祇神社にお参りしました。伊予国の一宮、そして全国で大山積神を祀る神社(三島神社など)の総本社となります。そして日本総鎮守とも称されます!!
大山積神は山の神でニニギが天孫降臨したときにお嫁さんにしたコノハナノサクヤビメのお父さんですね。姉のイワナガヒメも一緒に嫁いだそうですが、タイプではなかったとして送り返されています、、ニニギ君!そして、イワナガヒメが永遠の命を司る神で、送り返してしまったことで天孫の寿命が短くなったそうです、、ニニギ君!と、その話はまたの機会に。
さて、大山祇神社の創建ははっきりしないようですが、境内には弥生時代の神宝は祭祀遺跡があるということで、かな~り古い時代からご神体山である鷲ヶ頭山に対する山岳信仰的なものが存在していたとされます。
大山積神に関して、鎮座の由来は諸説あるようです。朝鮮半島に出征した越智氏が大山積神を戴いて帰国し、もとは摂津国の御島に鎮座、その後伊予国に勧請された、などなど。
推古天皇2年(594年)に大三島瀬戸に移ったとされ、大宝元年(701年)現在地への遷宮に向けて社殿の造営がはじまり、霊亀2年(716年)16年かけて完成、養老3年(719年)に遷宮の義が執り行われた。中世には伊予国一宮とされ、朝廷から「日本総鎮守」の号が下賜される。瀬戸内海の交通の要所にあり、戦火にたびたび遭うが、そのたびに再建されている。現在の拝殿、本殿は応永34年(1427年)に再建されたもの。村上海賊からも信仰を集め、武将たちが詠んだ「法楽連歌」が奉納されています。

二の鳥居
総門。元享3年(1322年)に焼失してから688年ぶり、平成22年(2010年)に再建。
大三島に祖神を寛恕したという乎知命(おちのみこと)お手植えの楠。息を止めて右回りに3周すると願いが叶う&一緒に写真を撮ると長生きできるそうですが、どちらもやってません。。
神門。寛文元年(1661年)松山藩主松平定長の寄進した門が老朽化のために平成28年(2016年)に建て替えられた。
拝殿。応永34年(1427年)再建。慶長7年(1602年)に大修理が行われている。重文。
ご本殿。応永34年(1427年)再建。重文。
宝物殿へ。。
一遍上人来島を記念して文保2年(1318年)に建てられたと伝わる宝篋印塔。重文。
伊藤博文公記念楠樹。

境内には数多くの摂社・末社や井戸などが、また周辺にも境外摂社・末社などがありますが、すべてお参り&巡ることはできませんでした。瀬戸内海の神社といえば厳島神社があまりに有名で、少し知名度は落ちるかな?しかし、歴史のある神社です。なんといっても宝物館・国宝館の収蔵品の多さがハンパではありません!多くは三島水軍の河野一族からの奉納品ですが、それ以外にも最古の日本式大鎧、「伝」ではありますが源義経や頼朝が奉納した鎧、護良親王や楠木正成を討ち取った大森彦七が奉納した刀などの国宝があり、建造物・彫刻・刀や鎧などの工芸品・古文書などの重要文化財も76件が指定されており、特に甲冑に関しては日本の国宝・重要文化財指定品の4割が当社にあるそうです!!戦後、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級以外を処分するように命じたが、密かに土中に埋めて守ったそうです。
また大三島には「鶴姫伝説」があります。室町時代大山祇神社の大祝職(神官)の家に生まれた鶴姫が、水軍を率いて戦い、恋をする物語ですが、その鶴姫が着用したという女性用の鎧・紺糸裾素懸威胴丸が見ることができます。この鎧は胸部が大きく膨らみ、一方で腹部が腰に向かって細くすぼまっていることから、女性用の鎧ではないかとされ、さらに鶴姫伝説のリンクした、ということです。鶴姫はあくまでも伝説なので、学術的には否定されているそうですが、小説を読んでいたので、見ることができて感動しました。
村上水軍関連の史跡も訪れたかったですが、いかんせん瀬戸内海の島々に散らばっていて(海賊ですからね)、しまなみ海道から何とかチラ見する能島などに感動するばかりでした。いつか船をチャーターして?!巡ってみたいものです。

奥の橋がしまなみ海道です。





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